孝明天皇「天然痘で病死」は誤り!?「毒殺の黒幕は伊藤博文説」の根拠の画像
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 日本の第一二一代天皇で、生涯を通じて平安京で過ごした最後の御門である孝明天皇。明治天皇の父である孝明天皇は強硬な攘夷論者でありながら、同じ思想の長州藩を嫌ったことでも知られ、慶応二年(1866)一二月二五日に三六歳の若さで急死。今も暗殺が根強く囁かれ、“日本初の内閣総理大臣”黒幕説もある――。

 孝明天皇は弘化三年(1846)二月、一六歳で践祚(皇位継承)。日本の近海が当時、異国船の相次ぐ出現に脅かされていたことから幕府に「神州の瑕か瑾きん(日本の恥)とならないよう、異国を恐れずに海防を強化せよ」という趣旨の海防勅書を出した。

 だが、対外関係はそれでも緊迫した。日本はその結果、ペリーの来航と日米和親条約の締結によって本格的に国を開くことになった。

 当時、国内の政治は幕府が「大政委任論」に基づき、朝廷から外交なども含めて全権を任されていたことから条約締結もむろん、あくまで事後報告。

 その後、駐日総領事として赴任したハリスが通商を求めて新たな条約の締結を迫ると、天皇が大の異人嫌いだったこともあり、尊王と攘夷両派が結びついて江戸城内で勢力を伸ばした。

 幕府はそこで、ハリスに「多くの諸侯が通商に反対している」と伝え、筆頭老中だった堀田正睦が反対派を黙らせるため、安政五年(1858)正月に上洛の途に就き、二月に参内。工作資金をばら撒いて天皇から日米修好通商条約の勅許を得ようとしたものの、この計画は見事に見抜かれた。

 天皇は側近に宸翰(天皇の手紙)で「備中守(堀田)が献上品を持って上京するとのこと。どれくらいの大金になるのかは分からぬが、これに目がくらんだら天下の禍の基になろう」と伝え、同時に朝廷内の開国派を警戒。

 それでも堀田の工作が奏効したのか、朝廷はいったん、条約締結は幕府の意向に任せるという趣旨の勅許素案をまとめた。

 だが、これに猛反発した公家ら計八八人が参内して撤回を求め、素案の起草者を殺せという声も表面化(「廷臣八八卿列参事件」)。

 結果、堀田に改めて勅答が下され、「アメリカとの通商問題は伊勢神宮(皇祖神)と歴代天皇に対して畏れ多く、国威を損なう」という、天皇の明確な意思が示されることとなった。

 しかし、大老となった井伊直弼が改めて天皇に諮るようにという勅答を無視。勝手に通商条約を締結したことに対し、天皇が「夷を征伐できずして何が征夷大将軍なのか」などと激怒したことで、前述の大政委任で外交権も与えられていた幕府は結果的に、天皇の意思を無視することができなくなった。

 必然、朝廷内では攘夷派が勢いづき、やがて攘夷激派と呼ばれる公家が事実上、乗っ取り、その背後にいたのが長州藩だった。

 こうして「皇国が焦土になっても交易は認められない」「皇国の武威を海外に輝かすべきだ」などといった宸翰が出されたが、文久三年(1863)八月、会津と薩摩両藩らによるクーデターが発生。

 朝廷と京都からそれぞれ攘夷激派の公卿と長州藩が追放され、天皇は政変前を振り返り、こんな趣旨の宸翰を残している。

「三条らの暴烈によって心を痛め、いささかも朕(天皇自身)の意見は採用されず、そのうえ、浪士たち(長州藩士や攘夷派の志士ら)と申し合わせて勝手に処置されてきた。表面的には朝威を高めるためだと言っているが、朕の存意は貫けないでいた」

 要は長州や攘夷浪士、攘夷激派の公卿らに自身の意思が歪められたということ。

 ここに長州藩を嫌った理由がある。とはいえ、天皇がこれで完全に攘夷思想を捨て去ったわけではなく、政変のあとも幕府に攘夷の実行を求めている。

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