征夷大将軍として蝦夷征討に功績坂上田村麻呂は初の幕府開設者!?の画像
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 京都市上京区の北野天満宮が所蔵する重要文化財に「鬼切丸」という名刀がある。鬼の腕を切り落としたという伝承からその名がつき、所有者は坂上田村麻呂。彼は平安時代初めに征夷大将軍となった武将で、蝦夷との戦いに勝って東北地方に安定をもたらした英雄として知られる。

 死後は甲冑兵仗姿で立ったまま東を向いて棺に納められて埋葬され、京都郊外にあるその塚は国家の非常時には雷電のごとく鳴り響き、地元の守護神として後世の人々に崇められた。

 ただ、一族は父の代まで渡来系の田舎豪族に過ぎず、彼はどのように英雄にまで上り詰めたのか――。

 中国後漢の時代、霊帝の曽孫である阿智王がいわゆる一族郎党を率いて来朝し、東漢氏としてヤマト朝廷に仕えた。

 東漢氏は分裂を繰り返し、大和国添上郡坂上里(現在の奈良市法華寺町付近)に進出した一族が坂上氏とされ、田村麻呂の名前も彼が田村里(奈良市尼辻付近)で生まれたことに由来するとされる。

 坂上氏の宗家は彼の曾祖父である右衛士大尉と祖父の左衛士督を朝廷に仕える武人として輩出した反面、一族は勢力基盤だった高市郡檜前村(奈良県明日香村)で郡司を出すことがやっと。

 だが、そんな無名の田舎豪族に奈良時代の天平宝字八年(764)、大きなチャンスが到来。

 藤原仲麻呂(別名は恵美押勝)が女帝の孝謙上皇が寵愛した怪僧の道鏡を倒すために挙兵し、国庫から天皇の印鑑(御璽)を奪おうとした。

 その際、孝謙上皇はこれを守るため、授刀少尉だった田村麻呂の父である苅田麻呂らに出動を命令。

 坂上氏はこうして歴史の表舞台に登場し、苅田麻呂はこのときの論功行賞で勲二等を与えられた。

 さらに宝亀元年(770)に怪僧の道鏡が事実上、配流に処せられて失脚した際、苅田麻呂がその追放事件で奸計を密告。

 彼はその後、陸奥鎮守府将軍となり、坂上氏はここに武門一族としての地位を確立させた、田村麻呂はこのとき、一三歳の少年だった。

 その彼は死後、実像が伝説化された部分があるものの、嵯峨天皇の御製とされる『田邑麻呂伝記』によれば身長一・八メートルで、当時としてはかなりの大男。

 目は情け容赦ない蒼鷹に似て、その眼を巡らせば猛獣もたちまち倒れるほどだった反面、ひとたび笑えば稚児もよく懐いたとされる。

 そんな彼は父の苅田麻呂から英才教育を施され、武人としての資質を磨いたのだろう。

 二三歳で近衛将監(近衛府の三等官)として武人デビューを果たしたとみられ、父が亡くなった翌年に三〇歳で近衛少将に順調に昇進を遂げ、三四歳のときに東北遠征軍の副使の一人に大抜擢された。

 なお、そのときの大使は大伴弟麻呂。日本史上初めて征夷大将軍になった人物で、当時は桓武天皇の御代。『日本後紀』で〈内は興作を事とし、外に夷狄を攘ふ〉と評された天皇だ。

 興作は長岡京、平安京と二回にわたる遷都を指し、彼は遠征軍を三度、東北に送った。

 一度目は失敗し、田村麻呂が副将となった二度目は成功したものの、どの史料もその内容を具体的には伝えておらず、彼がどんな活躍をしたのかは不明。『日本紀略』で四五七の首級をあげ、一五〇人を捕虜にしたとあることから「成功」とされたに過ぎない。

 遠征軍はおそらくこのとき、蝦夷を完全に叩くことはできなかったのではないか。

 というのも延暦一六年(797)、田村麻呂が征夷大将軍に任命されているからだ。

 彼はこの四年後の二月、四四歳のときに四万人の陣容を整え、三度目の遠征軍の大将として出陣。

 その成果も史料上、はっきりしない部分が多いものの、一〇月には京の都に凱旋し、『日本紀略』に次のようにあることから大きな成功と言えるだろう。〈陸奥の国の蝦夷らは何代にもわたって辺境(蝦夷とヤマト朝廷の勢力圏との境)を侵し、百姓を殺してきた。よって従四位上坂上田村麻呂大宿すくね 禰らを遣わし、討ち平らげた功によって従三位を授けた〉

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