幕末の暗殺者は人斬りを引退か!?岡田以蔵「ボディガード転身」の裏の画像
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 人呼んで「人斬り以蔵」――幕末の暗殺者として知られる岡田以蔵はその通称のせいか、実際には関与しなかった事件も彼の仕業とされ、イメージが先行しがちな人物。その生涯に関する史料も決して多くない。はたして彼は何者なのか。

 以蔵が土佐藩郷士の岡田義平の長男であることはほぼ間違いない。

 彼は天保九年(1838)、高知城下の七軒町で生まれ、一〇代で武市半平太に師事し、その道場で剣術を学んだ。おそらく好きな剣術で身を立てようとしたのだろう。一八歳のときに半平太に随伴し江戸に出た。

 当時の土佐藩は江戸湾の防備を任され、藩士に文武の道を究めさせる政策を実行し、以蔵の江戸行きも、その方針に則ったものだ。

 以蔵は半平太とともにその後、有名な鏡新明智流桃井道場に入門。同じ江戸の千葉道場で剣術修行中の坂本龍馬と交流したのもこの頃だ。

 一方、以蔵は剣術の上達が早く、翌年に桃井道場の目録を伝授され、土佐に戻ると、再び半平太に随伴し、中国、九州地方を回って武者修行。一行が途中、萩城下に立ち寄った際、以蔵は長州藩士の高杉晋作に出会ったとみられる。

 だが、この間に時勢が激変。幕府大老の井伊直弼が江戸城桜田門外で水戸浪士らに討たれると、尊王攘夷の気運が一気に高まった。

 以蔵がこうした中、文久元年(1861)に二三歳で師の後を追うように再び江戸に出ると、半平太は土佐勤王党(以下=勤王党)を結成。

 その血盟者名簿に以蔵の名はないものの、勤王党は尊王攘夷を目指す政治結社であると同時に半平太の弟子らの集団で、以蔵のその後の動きからして、彼がメンバーだったことは間違いない。

 ただ、政治の世界に深く傾倒しつつあった半平太と、あくまで剣の道を志す以蔵の間に溝が生じたのも、この頃ではなかったか。

 以蔵が江戸に残った一方、半平太は土佐に戻ると、藩の執政だった吉田東洋の暗殺を主導し、藩論をほぼ尊王攘夷でまとめることに成功。

 一方の以蔵は文久二年に一度、土佐に帰ったあと、勤王党のメンバーとともに参勤で江戸に向かう藩主の一行について大坂に入り、初めて暗殺を実行する。

 ターゲットは参勤の行列に加わっていた土佐藩下横目 (警察官)の井上佐一郎。彼は吉田東洋暗殺の下手人を捜索中で、勤王党の平井収二郎の指揮の下、六人の刺客が揃えられた。

 むろん、以蔵はその中心で、犯行現場は道頓堀界隈。以蔵は佐一郎を巧みに堀に架かる橋の上に誘い出すと、彼の首に手拭いを巻いて締め上げ、同志が腹に短刀を突き刺してトドメを刺した。

 以蔵は人斬りとはいいながら、実際のデビュー戦は絞殺だったことになり、尊王攘夷派が「天誅」と称した暗殺劇が翌年にかけて横行。

 以蔵は薩摩の田中新兵衛とともに京や大坂で人斬りを繰り返した反面、彼がどこまで尊王攘夷の思想を理解していたかは不透明で、実際は半平太が弟子の剣の腕を買い、汚れ役を背負わせた形だ。

 その以蔵が暗殺に明確に関与した相手は史料によれば、次の通り。

●本間精一郎=越後の商人のせがれ。諸国の尊王攘夷派と交わったが、その言動が反発を招いていた。

● 宇郷玄蕃頭=幕府寄りの公卿九条尚忠の家臣。安政の大獄で井伊直弼の家臣だった長野主膳らと志士を弾圧した。

●目明文吉=安政の大獄で志士の探索捕縛に当たった。

●平野屋重三郎=京の口入屋。勅使東下げ(後述)で私腹を肥やした。

 一方、濡れ衣も多い。たとえば、長野主膳の妾だった村山加寿江(生き晒し)と子どもの多田帯刀の暗殺にも以蔵の関与が噂されるものの、彼は事件当時、上方を離れていた。

 では、どこにいたのか。土佐や長州の尊王攘夷派は当時、幕府に攘夷の決行を迫る勅使の派遣を画策。

 工作が見事に実を結び、土佐藩が朝廷の正副使(三条実美と姉小路公知)の護衛を担い、江戸に下る「勅使の御供」の一人に以蔵の名がある。

 彼はこのとき、人斬りから一転、ボディガードになっていたのだ。

 以蔵はこの勅使東下の護衛を全うして京に戻り、二五歳になる文久三年(1863)正月以降、消息がはっきりせず、のちに無宿人として京都奉行所に捕縛されたことからして、脱藩したとみられる。

 その理由はよく分からない。ただ、政治の世界にどっぷりと浸かった半平太についていけず、以蔵なりの道を模索し始めたのかもしれない。

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