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高校野球100周年記念「甲子園名将列伝」第1回 蔦文也監督(徳島県立池田高校)

[増刊大衆06月30日号]

高校野球100周年記念「甲子園名将列伝」第1回 蔦文也監督(徳島県立池田高校)

1915 年(大正4 年)から始まった全国高校野球選手権は、今年で100 年を迎える。それを記念して、野球史に名を刻んだ名監督たちによる激闘の記録を5 回にわたって取り上げていきたい。第1回目は徳島県立池田高校の蔦文也監督。彼は豪快な強打をモットーとし、「やまびこ打線」で同校を全国屈指の強豪校に育て上げた。酒が大好きな人物としても知られた無頼派監督――その人間像に迫る。

蔦文也 つた・ふみや
●1923年、徳島県徳島市生まれ。徳島商業時代に3度甲子園に出場し、同志社大学に進学後も野球部に所属する。しかし43年、学徒出陣により太平洋戦争に出征。特攻隊員となるも、出撃することなく終戦を迎える。戦後、社会人野球を経て、50年に東急フライヤーズに投手として入団するも、1年で退団。徳島に帰り、翌年、社会科教諭として徳島県立池田高校に赴任する。同校の野球部監督に就任すると、チームを豪打の強豪校に育て上げ、92年に勇退するまでの40年間、同校の監督として指揮を執った。2001年、肺がんのため77歳で没。

監督としての甲子園通算成績
春:出場7回、21勝5敗、優勝2回(1983年、1986年)、準優勝1回(1974年)
夏:出場7回、16勝6敗、優勝1回(1982年)、準優勝1回(1979年)


徳島県三好市にある池田高校野球部のグラウンド脇には、蔦文也のダイナミックな言葉が記念碑に刻まれている。
〈山あいの町の子供たちに一度でいいから大海(甲子園)を見せてやりたかったんじゃ〉
白髪に赤ら顔。ずんぐりむっくりの体型。あけすけな徳島弁。選手たちは親しみを込めて「ブン」と呼び、メディアは「攻めダルマ」と称した。今夏、100周年を迎える高校野球だが、蔦ほど個性的な監督は見当たらない。

「わしから酒と野球をのけたら、なーんも残らん」
無類の酒好きで、大のバント嫌い。打って、打って、打ちまくる打線は"やまびこ打線"と呼ばれた。甲子園出場14回を誇り、優勝は春2回、夏1回。1982年夏と83年春には畠山準(後に南海ほか)と水野雄仁(後に巨人)を擁し、夏春連覇。そんな蔦の痛快な野球人生を、知られざるエピソードで綴りたい。

    ※      ※

蔦が父・新吉、母・玉枝の間に生まれたのは、1923年(大正12年)8月28日。関東大震災が起きる4日前のことである。徳島商の教員だった新吉は、酒に目がなく、小さい文也を連れ回し、カフェに入り浸った。後に文也が徳島商に進学すると、クラスメートから、「やーい、鯖の子、鯖の子」と揶揄された。いつも二日酔いで教壇に立った新吉が、死んだ鯖のような目をしていたからに他ならない。

蔦自身の高校野球(当時は中等野球)は、ほろ苦いものだった。
39年秋、センバツ大会選考を兼ねた四国大会決勝の高松商戦で、1点リードし、9回裏二死までこぎ着けたが、ファーストを守っていた蔦が送球を落球。同点に追いつかれ、延長戦で敗れた。慶応大学の受験に失敗し、同志社大学に進学したが、太平洋戦争が勃発。茨城県の土浦海軍航空隊で特攻訓練を受けると、生来の弱気の虫がうずいた。

「わしは死ぬ運命なのか」
恐怖に襲われた蔦は、国産の安ウイスキー「アルプス」をガブ飲みし、酩酊。桜の木を引っこ抜き、上官にボコボコにされた。だが、天は蔦を見捨てなかった。奈良県の大和海軍航空隊で「神風特別攻撃隊千早隊」の一員として、突撃命令を待っているとき、終戦を迎えた。

大学卒業後、社会人野球「全徳島」のエースになり、ベーブ・ルース杯で優勝。東急フライヤーズ(現・日本ハム)から誘われ、プロ入りするが、実働はたった1年。0勝1敗、防御率11.70という成績しか残っていない。

「わしは生まれ故郷の池田に帰り、監督をしたい」
蔦は一念発起し、教員採用試験に合格。1952年から、池田高校の指揮を執ることになるのである。
「雌伏の時代」から「雄飛の時代」へ!

蔦の40年にも及ぶ監督人生は、二つの時代に分けることができる。前半の20年は甲子園を目前にし、負け続けた「雌伏の時代」。後半の20年は甲子園の常連校になり、勝ち続けた「雄飛の時代」である。

蔦は監督就任3年目の55年秋、早くも徳島県大会の決勝に進出。蔦の母校・徳島商と戦い、0対11で大敗すると、時の校長・真鍋信義からケンカを売られた。
「甲子園に出られたら、わしは池田の町を逆立ちして歩いてやるわい。これからは学業で勝負じゃ!」

蔦は笑顔でやり返した。
「名前が真鍋だから、学べというわけか!」

57年夏は、県大会で準優勝したが、南四国大会の1回戦で敗退。60年夏は南四国大会の決勝まで駒を進めるが、またも古巣の徳島商に苦杯をなめた。その後も毎年負け続け、70年夏には、徳島県の代表決定戦で天敵とも言うべき徳島商に勝ったものの、南四国大会で土佐高に逆転負けし、涙を呑んだ。

当時、野球部長だった元木宏(後に県議会議長)が、苦笑いする。
「蔦はんは気が弱いけん、スクイズのサインを出すとき、緊張しよる。ベルトに触ったらスクイズでしたが、何回もベルトを引き上げるけん、すぐに見破られました」

負けて池田に帰ると、蔦は浴びるように飲んだ。元木によると、酒量は半端じゃなかったと言う。
「まず、学校の用務員室でビールを1ケース(当時・大瓶25本)空け、"ほな、いこか"と、スタンドバーやスナックを4~5軒ハシゴ。毎日でっせ。ツケが溜まり、ボーナスが出た日に、ごっそりママさんに持って行かれたこともある。ヨメはんに叱られるいうんで、私が一計を案じた。月賦でテレビを買うてボーナスで払ったことにしたらどやと。そしたら、本当にテレビ買うて、背中に担ぎ、千鳥足で帰りましたわ」

そんな時代が、20年も続くのである。
転機は71年夏。県大会を勝ち上がり、南四国大会決勝で天敵の徳島商と戦ったときだった。序盤に0対3とリードされると、蔦の弱気の虫がうずいた。

「もう、あかん、あかん」
「蔦はん、勝負は最後まで諦めたらいかん」
元木がたしなめると、蔦は破れかぶれでヒットエンドランのサインを出した。すると、ものの見事に成功。がぜん強気になった。6回には相手の守備が乱れ、同点に追いつき、延長10回裏、満塁からタイムリーが出て5対4で勝利。悲願の甲子園出場を決めるのである。元木が語る。
「大会前の甲子園練習のとき、ノックバットを持った蔦はんが"前から考えとったんじゃが、やりたいことがある。あそこに打ち込むことじゃ"とレフトスタンドを指差し、"かまわんか"と聞くんで、"やったらええ"と答えると、バットを一閃。レフトスタンド中段へ放り込みよった」

蔦は、20年間の万感の思いを込めてバットを振ったのである。
"さわやか野球"は"豪打"に変わった

池田の名前が全国区になるのは、74年春。11人の部員でセンバツ大会出場を決め、NHKが「谷間の球児」という番組を制作。"さわやかイレブン"と呼ばれるようになるのである。初戦の函館有斗(北海道)戦は、開会式直後の第1試合。エースの山本智久が振り返る。
「監督とナインがあがっているのを見て、投球練習の第1球を故意にバックネットへぶつけたんです」

蔦の一番弟子だけあって、師匠の気持ちをよく理解していた。部員11人(出場校中最少)の池田は決勝に進出し、部員59人(同最多)の報徳学園に挑んだが、1対3で敗れた。これが木のバットを使った最後の試合になった。

それから5年後の夏、今度は深紅の大優勝旗を手にするチャンスに恵まれる。
ただし決勝の相手は尾藤公監督率いる箕島。池田は8回表まで3対2とリードしていたが、その裏、箕島の巧みなスクイズなどで2点を失い、3対4で逆転負け。箕島戦でマスクを被ったのは、岡田康志(現・池田高監督)である。

「蔦監督は細かい野球では尾藤野球に勝てないと思ったんでしょう。スクイズではなく、外野フライで1点を取る野球は、この試合が分岐点になりました」

2年後、蔦から全権委任された高橋由彦が野球部副部長に就任すると、トレーニング革命に着手する。畠山が2年、水野が1年のときである。高橋が内容を明かす。
「タイヤ引き25mを5セット。ハードル跳び30回を5セット。腕立て伏せ15回を5セット。背筋25回を4セット。バーベルなど、器具を使ったトレーニングが5セット。そして、仕上げがグラウンドの向こうに聳える西山(709m)登りでした。筋トレばかり脚光を浴びましたが、実際はサーキットトレーニング。パワー野球ではなく、科学野球でした」
おかげで水野の背筋力は130㎏から185㎏になり、飛距離が大幅にアップするのである。

高校野球は金属バットの時代を迎え、池田と蔦を待ち望んだのである。
82年夏の甲子園大会は、池田のため、蔦のための大会だった。
準々決勝の早稲田実業(東京)戦は、持ち前の強力打線が爆発し、先発の荒木大輔(後にヤクルトほか)とリリーフの石井丈裕(後に西武ほか)を火だるまにした。

1回裏、3番・江上光治(右翼手)が荒木から2ラン。6回裏、水野(左翼手)が荒木から2ラン。さらに、水野は8回裏にも、石井から満塁ホームラン。池田打線は20安打を浴びせ、14対2で大勝。決勝はバントと機動力野球で久しく高校野球のお手本と言われた広島商を、力で12対2とねじ伏せた。

打って打って打ちまくる野球は、最初で最後の高校野球革命だったと言っていい。初の全国優勝を成し遂げた夜、蔦は生涯最高の美酒に酔いしれた。
「わしは日本一の監督やない! 日本一の酒飲み監督じゃ!」
酒も飲めない勇退後の孤独な人生…

数々の名勝負を演じた蔦だが、長年の暴飲がたたり、糖尿病を患い、右目がかすみ、両足がしびれ、ノックができなくなり、1992年に引退を表明した。
晩年の蔦は孤独だった。自宅療養中、記者が訪ねてきても面会を拒んだ。
「わしの人生は終わったんじゃ」

野球ができないばかりか、酒も医者から止められ、生きる気力を失った。愛弟子の水野雄仁が訪ねると、ノンアルコールビールの「バービカン」を飲んでいたという。

「"ブン"の痩せた顔を見て、本当に可哀相でした」
蔦が肺ガンで亡くなるのは、それから間もない2001年4月28日だった。
棺には、監督時代に着用した池田高校のユニフォームとノックバット、そして、甲子園の土とツタの葉が入れられた。蔦を乗せた車は池田高校に向かった。"やまびこ打線"を率い、甲子園で一世を風靡した蔦の最期らしく、山あいのグラウンドに大きなクラクションが響き渡った。
(文中=敬称略)

高校野球100周年記念「甲子園名将列伝」第1回 蔦文也監督(徳島県立池田高校)

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