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高校野球100周年記念「甲子園名将列伝」第2回 裁弘義監督(沖縄県立沖縄水産高校)

[増刊大衆07月26日号]

高校野球100周年記念「甲子園名将列伝」第2回 裁弘義監督(沖縄県立沖縄水産高校)

1915年(大正4年)から始まった全国高校野球選手権は、今年で100年を迎える。それを記念して、野球史に名を刻んだ名監督たちによる激闘の記録と涙のエピソードを取り上げていきたい。第2回目は沖縄県立沖縄水産高校の裁弘義監督。幼少期、沖縄で激戦を経験し、占領下で米軍兵士を見て野球を覚えた少年は、指導者の道を志すようになった。熱血監督が語った野球への情熱と戦争に対する思いを紹介したい――。

裁弘義 さい・よしひろ
●1941年、沖縄県糸満市生まれ。小4で野球を始め、高校時代は糸満高校で野球部に所属したが、甲子園出場は果たせなかった。この頃から高校野球の指導者の道を目指し、中京大学へ進学。卒業後、64年に保健体育の教員として小禄高校に赴任、野球部監督となる。甲子園初出場は75年の春、71年に転任した豊見城高校にて果たした。ここで監督としての才能を開花させると、80年に転任した沖縄水産高校では、同校を甲子園の常連校に育て上げ、夏の準優勝2回など、華々しい成績を収めた。2002年に教員を定年退職したあとも監督を続けたが、07年に肺炎のため死去。享年65。

監督としての甲子園通算成績(部長としての出場含む)
春:出場7回、4勝7敗
夏:出場11回、25勝11敗、準優勝2回(1990年、1991年)

米軍兵士仕込みの"熱血野球小僧"

豊見城と沖縄水産を率い、春夏合わせて甲子園出場17回。監督通算27勝。栽弘義は、押しも押されもせぬ"名将"だが、彼ほど"悲運"という言葉が似合う監督もいない。
大きな瞳と豊かな白髪。トレードマークは人懐っこい笑顔だったが、その裏には深い哀しみが隠されていた。

栽は1941年(昭和16年)5月11日、沖縄本島の最南端、糸満市で生まれている。日本軍が真珠湾攻撃を仕掛け、太平洋戦争に突入する半年前のことである。彼の歩んだ人生は、そっくりそのまま沖縄の戦後史と言っていい。
「ボールを握ったのは、小学校4年生のとき。ソフトボールを米軍兵士からプレゼントされ、見よう見まねでキャッチボールを始めました。ボールもグラブも、バットも、すべてが米軍のお下がり。その頃、沖縄の男の子は、10人中10人が野球小僧でした」

沖縄の高校が初めて甲子園に出場したのは、58年夏の首里高校。その首里高校と沖縄大会の準決勝で戦ったのが、栽のいる糸満高校であった。栽は2年生ながら、3安打を放ち、そのうち1本がホームラン。当時、沖縄でホームランは珍しく、栽は大会の「打撃賞」を受けている。

彼が愛用したスパイクは、米軍のお古。価格は2ドル50セントだった。
「スクラップ回収のアルバイトをして買いました。激戦地だった本島南部は、ひと鍬掘っただけで、鉄の破片が出てきた。それぐらい、戦争中、沖縄には大量の砲弾が降ったんです」

首里戦が契機になり、栽は高校野球の監督を志す。
「ベンチから首里の福原朝悦監督を見て、本当に羨ましかった。沖縄の高校で、教員が監督をしているのは珍しかったですから。糸満高校は、監督が顔を出すのは週1回。選手と行動を共にしなければ、絶対に強いチームはできないと思いました」

栽は中京大に進学し、大きな衝撃を受ける。
「沖縄の野球に一番欠けていたのは道具でした。特にバット。説明するまでもなく、最も良質なバットはプロ野球が使う。次いで社会人、大学、高校。使い物にならないバットが沖縄に来るんです。なにしろ、ヘッドとグリップで木目が違う。試し打ちすると、一発で折れました。だから、道具はどのメーカーのものがいいか、工場にまで足を運びました。それが沖縄に帰ってから役立ったんです」

大学時代は、ほろ苦い思い出しかない。
「沖縄出身ということでイジメられました。沖縄の子が素足で走っている姿がテレビに映し出されたらしく、"お前、靴なんかいらないだろう"と、脱がされたことがあります。沖縄に限らず、砂浜を走るとき、素足になるのは当たり前です。年配の英語教師には、授業に出るなと言われました。沖縄の日常語は英語だと思い込んでおり、抗議すると、"発音に自信がないんだ"と言われ、開いた口が塞がりませんでした」
生徒たちと一緒にアルバイトに奔走

大学卒業後、沖縄に戻った栽は、那覇の小禄(おろく)高校に赴任。半世紀に及ぶ高校野球の指導者生活が始まる。
「当時は日米親善の意味合いで、米軍の輸送部隊がバックネットを作ってくれました。那覇港で組み立て、それをクレーン車で学校に運び、グラウンドに備えつけてくれたんです。そこから、私の高校野球がスタートしました」

新任の指導者とあって、キャプテンが栽に迫った。
「インコース打ちのお手本を見せてもらえませんか」
栽は、ひるんだらナメられると思い、必死にバットを振った。幸い、腕をたたんで振るインコース打ちは得意中の得意。外野の向こうには、青々とした水を湛えた漫湖が広がっていた。
「たまたまですが、湖に3本もホームランを叩き込んだんです。あれで、選手たちがひれ伏したんですよ」

折しも、東京オリンピックが開かれた年だった。
「私も生徒たちも、『善太郎組』とか『大城組』と書かれたヘルメットを被り、建築現場のアルバイトをしました。私のポリシーは、父母からお金をもらわないというものでした」

アイデアマンの栽は、基地が約50%を占める西海岸の読谷村へ出かけ、バッティングケージに使えそうな網を譲ってもらう。硬球が抜けないことを確認し、防球ネットを作った。
「トレーニング器具も、手作り。2つのバケツにセメントを入れてパイプで繋いだものが、バーベルになりました」

古新聞でボールを作り、室内バッティングをしたのも、栽が最初だった。紙のボールは引きつけて打たないと飛ばないため、変化球打ちの練習になった。進取の気性が沖縄の県民性だとすれば、栽は典型的な沖縄人であった。
「小禄時代、勝てずに悩んでいるとき、建築関係の本を読みました。そこに、地震に強い建物を造るには、硬いものの間に軟らかいものを挟めばいいと書いてあり、女子マネジャーを考えついたんです。高校野球で女子をマネジャーにしたのは、私が最初ですよ」

70年夏、南九州大会決勝まで駒を進めたが、都城(宮崎)に1対3で惜敗。あと一歩のところで、甲子園出場を逃した。
信頼関係を築いて大躍進するも……

栽野球は豊見城高校に赴任してから花開く。
「広島商、中京商、松山商の野球はなんだろうと考えると、監督と選手の信頼関係でした。豊見城に移り、勝てるようになったのは、選手が私を信頼してくれたからです」

栽の甲子園初陣は、75年春のセンバツ。情にもろい栽は、年齢制限で試合に出場できなくなった亀谷興勝投手を監督に抜擢。自らは部長登録をし、試合に臨んだ。
赤嶺賢勇(後に巨人)を擁した豊見城は、準々決勝で優勝候補の東海大相模と対戦。1対0とリードした9回裏、どんでん返しが待っていた。3番・原辰徳(三塁手。現・巨人監督)
は三振に仕留めたが、後続に連続ヒットを浴び、同点。なおも一、二塁から、7番・山口宏(捕手)が打ち上げた一塁後方のフライを、豊見城の一塁手が落球。二塁走者が生還し、土壇場でうっちゃられた。

栽の甲子園における「悲運」の始まりである。
首里が甲子園に初出場したとき、選手の平均身長は162㎝。栽が豊見城で甲子園の常連校になったときも、167㎝。
「いずれも、全チームで一番小さかった。沖縄の子供たちが栄養不足だったのは明らかです」

ハンディを補うには、猛練習しかなかった。塁間のウサギ跳び40回を選手に強いたのも、この頃である。
「豊見城時代には、2000坪の畑を借り、子供たちとサトウキビを作った。年間20数万円の利益を出し、ボールを買ったんです」

夏の甲子園大会は、76年から78年まで3年連続、ベスト8に進出したが、いずれも惜敗。ベスト8の壁は厚かった。

沖縄水産に移った85年夏の甲子園大会は、ベスト8 をかけ、鹿児島商工(現・樟南)と対戦。5対5で迎えた9回裏一死満塁。1年生投手・上原晃(後に中日ほか)が渾身の力を込めて投げた球が、ホームベースに当たり、サヨナラ暴投になった。

栽は宿舎に帰ると、雷を落とした。
「おれは許せても、沖縄100万県民は許せんぞ!」
屈指の強豪校でも優勝旗は遠く……

90年からは2年連続、夏の甲子園で決勝にまで進出するが、いずれも準優勝に終わった。
記憶に残るのは、大野倫。90年夏は5番・右翼手として出場し、26打数9安打(打率3割4分6厘)。91年夏は、右肘を痛めながらも6試合すべてで完投。決勝の大阪桐蔭戦は、6対2と4点リードしながら、5回裏に6点を奪われ、逆転された。

栽にとっては、これが深紅の大優勝旗に最も近づいた瞬間だった。
2年連続決勝戦で敗れ、栽が語った言葉が独り歩きするようになる。
「沖縄のチームが優勝しない限り、沖縄の戦後は終わらない」

栽は事実確認に訪れた記者に、憤然と語った。
「事実誤認です。戦争と野球は違う。そんなことを言ったら、戦争で亡くなった方に失礼だ!」

怒りは収まらなかった。
「私は姉3人を亡くしています。一番上は、集団自決。生前、母は周囲に口止めし、私が事実を知ったのは、母が死んでから。2番目と3番目の姉は、戦争中に行方不明になった。栄養失調で死んだという話を聞きましたが、本当のところはわかりません」

栽自身も4歳のとき、手榴弾を浴び、背中に大ヤケドを負った。
「アメリカ兵から"防空壕を出ろ!"と言われ、怖くて出られず、手榴弾を使われたんです。私は母の背中に負われていたので、大ヤケドを負いました」

栽は大人になってからも、暗闇を怖がった。甲子園期間中、宿舎で寝るときは、部屋を真っ暗にしなかったという。幼少時代の体験が、そうさせていたのかもしれない。
悲運の死のあとに"栽野球"の花開く

栽の悲運は、監督を退いてからも続いた。
体調を崩し、咳が止まらなくなったのは、2007年2月。個人病院に行くと、帯状疱疹と診断されたが、3月に入ると、吐血。総合病院に転院し、MRI検査を受けた。
「心臓のバイパスに動脈瘤があり、肺に出血している」
そう言われ、緊急手術を行った。

14時間に及ぶ大手術だったが、関係者が見舞いに行くと、栽は食事をしており、むせていた。4月下旬、容態が急変し、ICU(集中治療室)に収容された。そして、意識が戻らないまま、5月8日、帰らぬ人となった。病院側は「呼吸不全」としか説明しなかったが、死因は肺炎。悲運としか言いようがない最期であった。

しかし、栽が種を蒔き、水をやって育てた沖縄の高校野球は、大輪の花を咲かせる。我喜屋優監督率いる興南が、甲子園大会で春夏連覇を成し遂げるのは、栽の死から3年後の2010年のことだった。

(文中=敬称略)

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