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再評価・田中角栄「天才政治家の豪快伝説」

[週刊大衆2016年05月23日号]

再評価・田中角栄「天才政治家の豪快伝説」

 ここにきて再評価の気運。こんな閉塞した時代だからこそ、清濁併せ呑むような豪傑が必要なのだろうか――。

「私、小学校高等科卒業だ。しかし、君たちは天下一の秀才集団で財政金融の専門家だ。我と思うものはいつでも言ってくれ。できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はこの俺が背負う」 これは、故・田中角栄元首相が大蔵大臣(現財務大臣)に初めて任命された際、官僚を前にブチあげた“伝説のスピーチ”だ。事実、彼はその言葉を貫いた。今、そう言ってくれる上司が、どれだけいるだろうか――。

 その角栄氏は、今で言う中卒から成り上がり、1947年、衆議院議員に初当選。以降、郵政、大蔵、通産大臣などを経て、72年、54歳で首相に就任するものの、『文藝春秋』誌が角栄氏の金脈問題を暴くと、2年半足らずで内閣を総辞職。76年には、いわゆる「ロッキード事件」が発覚し、5億円の受託収賄罪などで逮捕起訴され、その後、有罪が確定する。しかし、その間も永田町に君臨し続け、“昭和の闇将軍”といわれた。金権政治の権化と評されてきたが、ここにきて、そのズバ抜けた行動力や、人心収攬(しゅうらん)の巧みさが、閉塞感が蔓延する現代ニッポンで見直されているのだ。

「今、ちょっとした“角栄ブーム”ですね。関連本は軒並みヒットしています」(大手書店の政治コーナー担当者) 記者時代に角栄氏と交流のあった政治評論家の浅川博忠氏が、こう語る。「角さんというと、全国に新幹線や高速道路、空港を作ったことばかりが取り上げられますが、それだけではありません。1964年に新潟地震が発生した際、倒壊した家屋を目の当たりにした角さん(当時は大蔵大臣)のひと言がキッカケになり、2年後に地震保険が誕生しました」

 地震保険の生みの親でもあると同時に「被災地に対して、素早く緊急予算を組みました」(前同)など、熊本地震の避難生活が長期化する今こそ、「角栄氏のような政治家が求められる」(永田町関係者)のだ。以下、その“豪快伝説”を一挙出しする。

 角栄氏は、72年に日中国交正常化を実現した政治家としても知られる。『田中角栄 相手の心をつかむ「人たらし」金銭哲学』(双葉社刊)の著者である向谷匡史氏は、「日中共同声明発表後、角栄氏と中国の周恩来首相が北京から上海へ移動中の機内でのこと。周首相と歓談していた角栄氏は居眠りを始めました。随行の政府関係者は慌てて、“首相、首相……”と起こしにかかりますが、本人は爆睡状態。一方の周首相は“疲れているんでしょう”と笑って角栄氏を気遣ったそうです。“失態”のはずが、笑いを誘い、親近感を抱かせるところが、彼の人徳だと思います」

 かつての選挙には実弾(現金)が飛び交っていたとされる。自民党幹事長時代の角栄氏は、自派閥のみならず、他の派閥候補にも軍資金を配った。そのやり口に“角栄流人心掌握術”が象徴されているという。「候補者にとって必要なのは、“頑張れ!”のひと言よりは軍資金。しかし、“出してやる”という傲慢な態度で出したら、相手のプライドが傷つきます。そこで、角栄氏は届ける秘書に“どうか納めてくださいと、土下座するくらいの気持ちでやれ。そうすれば金が生きる”と厳命していたそうです」(前同)

 角栄氏と同じく越後出身の戦国武将・上杉謙信は敵に塩を送った逸話が知られるが、角栄氏の場合は敵に衣類を送ったという。ロッキード事件を批判して作家の故・野坂昭如氏が角栄氏と同じ選挙区から衆院選に立候補した際のこと。時は真冬。雪に慣れない野坂氏が苦戦しているのを見て、角栄氏は秘書に「風邪を引くから、靴下、長靴、手袋を差し入れてやれ」と命じたというのだ。政敵に対してでさえこうなのだから、あとは推して知るべし。

 前出の浅川氏が初めて角栄氏に取材に行ったときのこと。帰り際に角栄氏は、「ところで、君は何年生まれだ?」と聞いた。浅川氏は、「昭和17年です」と答える。すると角栄氏は、「5歳で亡くなったワシの長男と同級生だな。大きくなっていたら、君のようなジャーナリストになっていたかもしれん。これも何かの縁だ。いつでも気楽に遊びに来てくれ」と言ったという。「東京・神楽坂の料亭では、会談した相手の運転手にまでチップを渡していましたよ。無学の叩き上げだったからこそ、運転手にまで気配りができたんでしょうね」(浅川氏)

 マスコミへのサービス精神も旺盛だ。金権政治で叩かれていたときも、マスコミのカメラマンの姿を見かけたら、右手を上げ、「ヨッ!」という有名なポーズを必ずしていた。取り巻きに「批判する相手に手を上げる必要はないですよ」と言われると、「連中だって好きでやってるわけじゃない。俺の写真が撮れないと商売にならんだろう」と答えたという。そうやって人の心をつかむだけではなく、話術がまた巧みだった。「演説の2分半に1回、必ず冗談を入れるんです。それを本人に聞くと、“おぉ、そうか、君に初めて言われたよ。よく研究してくれてるな、ありがとう”と礼を言われた思い出があります(笑)」(浅川氏)

 その角栄氏は“コンピュータ付ブルドーザー”との異名を取った。緻密な計算に基づき、大胆に行動したからだ。「趣味のゴルフにしても、プレーした月日はもちろん、ホールごとの成績、ボギーだった、バーディだったということまで細かく覚えているんです。官僚からの説明にも、詳細な数字をきちんと把握していましたね。政治家はふつう、たとえば約4000などという数字を概算で記憶するんですが、角さんは、“3981”という具合に正しく記憶していました。正確な数字こそが説得力を持つと考えていたのかもしれません」(前同) そんな角栄氏にも唯一の弱点があった。愛娘の田中眞紀子元外務大臣だ。

「(前述の)『文藝春秋』の特集記事は、金脈・人脈・女性問題と、いわば田中角栄を丸裸にする内容でした。しかし本人は、“金脈については説明できるが、人脈については痛い”と言ってました。そして、(女性問題が暴露されたためか)愛娘の眞紀子氏がしばらく口をきいてくれなかったことを“何よりも辛い……”とこぼしていました」(前同)

 その眞紀子氏の「婿取り」の逸話に、次のようなものがある。かつて角栄氏が大臣を務めた財務省(当時は大蔵省)の元官僚が、「あくまでも霞が関で語り継がれているゴシップですよ」と前置きして語ってくれた。「適齢期を迎えた愛娘の眞紀子さんに夫を選ぶことになり、角栄さんは、独り身の“書生”たちを呼びつけ、彼らを並べて脱ぐよう命令したそうです」 それなりに立派なモノを持っている男でないと、眞紀子氏にふさわしくないと考えたのだろうか。恥ずかしがったり縮こまったりしている書生たちの中で、唯一、田中直紀参院議員だけが、堂々とさらけ出して立っていたという。「見れば、なかなか逞しい。角栄さんは直紀さんのアレを指でピンと弾き、“立派なもんだな”とニンマリ笑ったそうです」(前同)

 他に、こんな伝説が。「神楽坂は、午前中と午後とで一方通行の向きが変わるのですが、これも角栄さんが決めたと聞きました」(神楽坂の飲食店従業員) 角栄氏が“目白御殿”から国会議事堂に向かう午前中は西から東へ。神楽坂の料亭に寄ってから帰宅する夜には、方向が逆になる。実際は、「歩道を造ったら車道が狭くなったので、逆方向式の一方通行に変わっただけ」(新宿区関係者)というのが正解だが、交通規制ぐらいは簡単に変えてしまいそうなスケールの大きさが彼にはあった。

「角さんが進めようとした『日本列島改造論』は、地方を活性化させ、安定した雇用や出生率、地域社会の実現を目指したもの。現代に通じる政策で、その意味で先見の明があったと言えます」(前出の浅川氏) 中央と地方の格差や少子化問題で紛糾する現代、角栄待望論もうなずける。「ロッキード事件で角栄氏と対峙した堀田力東京地検特捜部検事(当時)も“田中さんが国民の安全と幸せを第一に考えていたことは確かだ”と評しています」(前出の向谷氏) それが田中角栄という男なのだ。求心力を失いつつある今の首相も、見習うべきところは多いのでは?

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