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稗田阿礼は女性だった!? 古事記を編纂した天才の謎

稗田阿礼は女性だった!? 古事記を編纂した天才の謎

 思わず「どれ?」と言ってしまいそうな名前。それが稗田阿礼(ひえだのあれ)である。正直なところ、日本最古の歴史書『古事記』(こじき)の序文に編纂者の一人として記されている以外にほとんど史料がなく、性別さえも分かっていない人物だ。では、なぜ身分が重視された時代に、正体のしれない稗田阿礼が古事記の編纂に関わることができたのか。古事記に携わる前後は何をしていたのか。謎多き稗田阿礼について探っていこう。

■そもそも『古事記』とは、どんな書物なのか!?

『古事記』を簡単に説明すると、天武天皇(631〜686)の勅令によって672年に編纂が開始された現存する日本最古の歴史書。編纂者は太安万侶(おおのやすまろ)と稗田阿礼。上・中・下の全3巻から成り、712年、天武天皇から2代後の元明天皇(660〜721)に献上された。しかし、原本は存在せず数冊の写本が伝わるのみで、『古事記』という名称も正式名称なのか、それとも後づけなのか、定かになっていない。

●『古事記』が編纂されるトホホな経緯

『古事記』が完成した712年から遡ること67年前の645年。皇位継承争いの末、中大兄皇子や中臣鎌足らによる蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変)が起こる。息子を殺された蘇我蝦夷は、事件の翌日に自らの邸宅に火をつけて自殺。その際、近くにあった天皇家の書庫に火が燃え移り、『天皇記』など多くの歴史書も焼失することとなった。以後、中大兄皇子が天智天皇に即位してから「大化の改新」のドタバタで放置され続け、焼け残ったとされる『国記』もいつの間にか行方不明に。結局、天武天皇が即位した673年以降に新たな国史『古事記』の編纂が命じられたという。

●『古事記』は複雑な方法で編纂されている

 天武天皇は『帝紀』(皇室の系譜に関する記録)と『旧辞』(神話や伝承)を整理するため、稗田阿礼に誦習(書物を口に出して繰り返し読むこと)を命じた。その後、天武天皇の死去により一度編纂作業が中断したが、元明天皇が太安万侶に阿礼の誦習を聞き取って編纂するよう命じ、神代から推古天皇時代までの記録を4か月かけて書き記した。

 なぜ、このような二度手間とも言える方法を用いたかというと、漢文の記録をそのまま書き写すだけでは不十分だったからである。当時はまだ万葉仮名等の文字表記が確立されていなかったため、正しい口調やトーンまでは書き残されていなかったのだ。そこで歌謡や神話に詳しい阿礼に再現させ、文官の太安万侶が上代特殊仮名遣(じょうだいとくしゅかなづかい)を用いた変体漢文にして、日本語を忠実に書き記そうとしたのである。そのため、漢文体で書かれた『日本書紀』とは違い、『古事記』では日本語特有の敬語や助動詞などの表記を見ることができる。

●『古事記』のアンビリバボーな内容

『古事記』は国史と言いながら、実際は天皇による支配の正当性を歴史的に証明しようとしたものである。そのため、神話や物語が中心で史料としては信じがたい面が多く、日本最古の歴史書でありながら学校の授業などではほとんど取り扱われない。ただし、古典文学だけでなく、宗教学、民俗学、神話学などの観点からみても貴重な文献であることは間違いない。

●『古事記』の偽書説

 江戸時代以降、複数の研究者が偽書ではないかという説を唱えてきた。以下が、偽書だとする主な理由だ。

・797年に完成した史書『続日本紀』に「712年に古事記が献上された」という記録がない
・正しく写本されていない可能性がある(加筆された可能性がある)
・稗田阿礼と太安万侶が実在したとは言い切れない
・その時代に知ることのできない情報(風土記に基づくものなど)が記されている

 中には、太安万侶の子孫・多人長(おおのひとなが)が先祖の手柄をつくるために作成したのではないか、などという説もある。しかし、写本しか存在しないため、これらの真偽を確かめるのは難しそうだ。

■稗田阿礼の人物像とは?

 古事記の序文には、以下のように記されている。

時有舎人。姓稗田、名阿礼、年是二十八。為人聡明、度目誦口、払耳勒心。即、勅語阿礼、令誦習帝皇日継及先代旧辞。

現代語訳:そのとき一人の舎人がいた。姓は稗田、名は阿礼、年は28歳。聡明な人で、目で触れたものは即座に言葉にすることができ、耳で触れたものは心に留めて忘れない。すぐさま天皇は阿礼に『帝皇日継と先代旧辞を誦習せよ』と命じた。

 このことから、稗田阿礼は28歳の舎人で抜群の記憶力を持つ天才だということがわかる。舎人(とねり)とは、皇族や貴族に使えて宿直や護衛、雑用を行う下級役人のことで、一般的に男性が従事。身分によって内舎人(うどねり、身分の高い貴族の子弟)、大舎人(おおとねり、下級官人や庶民の子弟)が任じられ、課役免除の恩典があったという。

■「稗田阿礼=女性説」が唱えられた理由とは!?

 江戸時代の国学・文献学者である本居宣長(もとおりのりなが)が、40年かけて古事記の注釈書『古事記伝』を著したことにより古事記は再評価された。本居宣長は、稗田阿礼が舎人という職であったことから男性説を提唱するが、一方で女性とする意見や別人説も増えていったという。

●女性と考えられる理由

・平田篤胤の説

 本居宣長の弟子である平田篤胤(ひらたあつたね)は、阿礼という名が男性らしくないことを指摘。さらに平安時代に行われた『日本書紀』の講義に関する記録書『弘仁私記序』の中で「阿礼はアメノウズメ(日本神話に登場する芸能の女神)の末裔」と記されていることを発見。さらに、古代の宮廷にいた巫女・猿女君(さるめのきみ)も祖神がアメノウズメであり、平安時代の儀式書『西宮記裏書』で猿女には稗田姓の女性が複数いたことを指摘している。

・柳田国男の説

 民俗学者の柳田国男は平田篤胤の説を受け継ぎ、女性説を提唱。著作『妹の力』などでもそのことに触れている。柳田国男は篤胤の説に加え、阿礼の名が神の誕生を意味すると指摘。阿礼を「生れ(あれ)」もしくは「御阿礼(みあれ)」と読み解き、神霊が宿った女性は一様にそう呼ばれるものと捉えた。

・西郷信綱の説

 1975年から1989年かけて『古事記注釈』(全4巻、平凡社)を発表した『古事記』研究のスペシャリスト、神話学者の西郷信綱も平田・柳田両氏の説を提唱。著書には、「アレ」は巫女の呼称で阿礼はシャーマンだというような記述が多い。

・三谷栄一の説

 国文学者の三谷栄一は1961年に「古事記と後宮の伝承 稗田阿礼女性論再考序説」という論文を『國學院雑誌』で発表。『古事記』が女性優位の思想で書かれていることから阿礼は女ではないかと唱えた。

・長部日出雄の説

 作家で評論家の長部日出雄は著作『「古事記」の真実』の中で、『古事記』には『日本書紀』にはない女性しかもちえない視点があるとし、元明天皇が女性だったことを重要視した。

●アメノウズメを始祖とする「猿女君」とは?

 猿女君(さるめのきみ)は、朝廷の祭祀に携わってきた氏族。天照大神(あまてらすおおかみ)が天岩戸に引きこもって世界が闇で包まれた際に、アメノウズメが岩戸の前で舞ったという伝承から、神事における演舞などを執り行っていた。「猿女」という氏は、アメノウズメが天孫降臨の際に、サルタヒコ(猿田彦)の名を残すためにニニギノミコト(瓊々杵尊)が名づけたとされる。一族の本拠地は伊勢国だが、朝廷の祭祀のために一部は大和国添上郡稗田村に移り住み、稗田氏を名乗ったという。

●稗田阿礼=別人説も存在!

・「稗田阿礼=藤原不比等」説

 哲学者の梅原猛は、古事記の中の神話が都合よく書き換えられていることや無遠慮な言葉使いであることなどから、年齢的にも稗田阿礼は藤原不比等なのではないかと唱えた。ちなみに、不比等は藤原鎌足の次男で659年生まれ。古事記が編纂されていたころは右大臣であった。ちなみに『竹取物語』に登場するずる賢い貴公子、車持皇子のモデルである。

・「稗田阿礼=山上憶良」説

 源為憲が平安中期につくった3つの字母歌「あめつち」、「たゐに」、「いろは」の中に、稗田阿礼=山上憶良とする暗号が組み込まれているという説。

稗田阿礼ゆかりの土地

『古事記』の一文以外、史料の存在しない稗田阿礼だが、日本各地にはゆかりの場所が数多く存在する。

●賣太神社(めたじんじゃ/奈良県大和郡山市稗田)

 稗田氏の居住地とされる場所(元大和国添上郡稗田村)に造営。稗田阿礼命(ヒエダノアレノミコト)を主祭神として祀る。副祀神は天宇受賣命(アメノウズメノミコト)と猿田彦神(サルタヒコノカミ)。

●稗田神社(ひえだじんじゃ/兵庫県揖保郡太子町)

 推古時代に草創。当時の祭神は豊受姫大神(トヨウケヒメノカミ)、素盞鳴大神(スサノオノカミ)、天鈿女大神(アマノウズメノカミ)と猿田彦大神(サルタヒコノカミ)だったが、後世になって稗田阿礼大神(ヒエダノアレノカミ)、素盞鳴大神(スサノオノカミ)を奉祀。

●稗田野神社(ひえだのじんじゃ/京都府亀岡市稗田野)

 阿礼が丹波国佐伯郷原野で生まれ育ったという伝説から、境内で稗田阿禮社を造営。役所の古い記録に稗田阿禮の名があるそう。

●飛騨せせらぎ街道(ひだせせらぎかいどう/岐阜県)

 高山市から郡上市を結ぶ、せせらぎ街道の道中に「稗田阿礼生誕の地」という看板が立てられている。所縁や関連は不明だが、日本のルーツは飛騨にあると唱える人が建てたもののようだ。

まとめ

 定説どおり、稗田阿礼が実在して古事記を編纂したとするならば、超人的な記憶力と再現力をもった天才であったことは間違いないだろう。ただ、あまりにも確証がない。実は40年ほど前まで、太安万侶が実在したか否かを示す史料もなく、古事記は偽書だと言われていた。しかし1979年に奈良市此瀬町の茶畑で太安万侶の墓が発見され、青銅の墓誌とともに火葬された骨や真珠が収められた木櫃が出土し、安万侶が実在の人物だったことが明らかになった。稗田阿礼の墓もまだどこかに埋もれていて、事実が明らかになる日がくるのかも?

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