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ペリーはなぜ来航したの!? 今さら聞けない幕末史

ペリーはなぜ来航したの!?  今さら聞けない幕末史

「開国してくださいよ〜」の名セリフを生み、Flash化されて社会現象にもなった宮崎吐夢によるトークネタ『ペリーのお願い』や、エグスプロージョンfeat.トレンディエンジェル斎藤がYoutubeで公開した、踊る授業シリーズ「ペリー来航」で話題になった黒船来航のペリー。もちろんネタ上の架空の人物ではなく、歴史の教科書にも必ず登場する日本を開国したアメリカ人であると同時に、激動の幕末の扉まで開けてしまった張本人である。

■なぜ、ペリーは来航したのか? 当時の米国の背景

 1760年代から1830年代にかけて産業革命が起こると、ヨーロッパの国々は大量に生産された品の輸出先を求めて植民地獲得競争に突入した。インドや東南アジアに拠点を持っていなかったアメリカは、この競争に苦戦していたが、アヘン戦争でイギリスに負けた清と、アメリカが1844年に望厦条約という不平等条約を結んだことを足がかりに、アジアへの進出を目指した。

 1848年、アメリカ・メキシコ戦争に勝って西海岸のカルフォルニアを領土としたアメリカは、本格的に中国との貿易を始めるため、最短航路だった津軽海峡の函館に補給拠点を求めた。

 ペリー来航の本来の目的は、捕鯨船の太平洋での補給拠点を作ることだった。産業革命で夜遅くまで稼働するようになった仕事場には、マッコウクジラの鯨油を燃料とした潤滑油やランプの灯火が不可欠だったため、当時は世界中で捕鯨が行われていた。特に日本周辺の海には良い漁場がたくさんあり、多くの捕鯨船がやって来た。鯨油の抽出に使う大量のまきや水の他に、長期航海のための食料などさまざまな補給を必要としていたのである。

●日本に来航したのは黒船が最初じゃない!?

 実はペリーの来航以前から、鎖国中の日本に何度もアメリカ船が来ていた。1791年にジョン・ケンドリックが紀伊大島に上陸したのを皮切りに、代表的な来航だけでも10回以上を数える。その中でも1837年の「モリソン号事件」と1846年のジェームズ・ビドルによる浦賀港への初の軍艦寄港は特に有名である。

【ポイント解説】ペリーってどんな人だった!?

 マシュー・カルブレイス・ペリーはアメリカ海軍の軍人。1812年に勃発したアメリカ・イギリス戦争後、奴隷の帰国事業に尽力し、リベリア共和国の建国に貢献した。1846年に開戦したアメリカ・メキシコ戦争では海軍を強化し、”蒸気船海軍の父”という別名を持っている。1852年に東インド艦隊の司令長官に就任すると日本開国の任命を受けた。翌年に代将という肩書きでアメリカ全権を持った通商交渉使節として日本に来航し、協議の末に開国に成功した。

 190センチ以上の長身で態度や声も大きかったため、”熊おやじ”というあだ名がある。しかし性格は慎重かつ勉強熱心で、日本開国の任務に関しても過去の事例を研究して綿密な計画を練っていた。フリーメイソンの一員でもある。ちなみにインディアン戦争をアメリカの勝利に導いた英雄として有名なオリバー・ハザード・ペリーは実兄。

■当時の日本の状況とは?

 1833年から1839年まで続いた「天保の大飢饉」で、全国が疲弊し民衆の不満が募っていた。そして1841年から1843年に財政建て直しのために行われた「天保の改革」も失敗に終わった。

 そんな苦しい状況の中で1840年に勃発したアヘン戦争に清が敗北したという事実は、江戸幕府に大きな衝撃と危機感を与えた。そのためとりあえず外国船は追い返して上陸した外国人は逮捕するという強硬な「異国船打払令」から、外国船に水や燃料の補給を認める「薪水給与令」へと転換を図った。財政改革に成功した薩摩藩や長州藩の発言力が強くなりはじめたのも同じ頃だった。

■1回目の来航と、その後

 1853年5月26日に上海を出航し、琉球王国(沖縄)の那覇沖にやって来たペリーたちは、武装して首里城に進軍して形ばかりのもてなしを受けた。艦隊の一部を那覇に残し、6月14日から18日にかけて小笠原諸島を探検した後、7月8日に浦賀沖(神奈川県横須賀市)に軍艦4隻で来航した。これが有名なペリーの「黒船来航」事件である。

 黒船から数十発の空砲が発射され、江戸の町民は大混乱に陥り、浦賀は見物人だらけになった。このとき第12代将軍の徳川家慶は病床にあったため、老中首座の阿部正弘が対応することになった。

 来航から6日後、7月14日になって江戸幕府はペリーたちの久里浜への上陸を許可し、浦賀奉行が会見してアメリカ大統領から将軍への開国を要求する親書を受け取った。ペリーは「返事を聞くために1年後に再来航する」という言葉を残して7月17日に江戸を離れ、琉球に残した艦隊と合流して香港へ帰って行った。

【ポイント解説】「黒船」の姿が衝撃的だった!

 幕府には、長崎にいるオランダ人から、ペリーがやって来ると報告されていたが、実際に来航した軍艦を見てどぎもを抜かれた。4隻の艦隊のうち2隻は規格外の大きさを誇る世界最大級の蒸気船だったのだ!

 しかもその2隻の船体には鉄が張ってあり、他の2隻にも黒い塗装がされていたため、4隻のえたいの知れない黒さは、見る者に圧倒的な威圧感と恐怖心を与えた。計73門の大砲を搭載した4隻には1000人以上の乗組員が乗っており、幕府が親書の受け取りをためらっている間に勝手に江戸湾の測量を開始したりした。

 ペリーが去ってから10日後に徳川家慶が死去し、病弱な徳川家定が第13代将軍に就任した。幕府内は混乱したが、当時の世論は異国排斥を訴える攘夷論で盛り上がっており、実際の国政を担っていた老中首座の阿部正弘はペリーの来航と開国要求に困惑するばかりだった。態度を決めかねた阿部正弘は、江戸幕府始まって以来初めて旗本はもちろん外様大名、はては庶民にまで広く開国に関する意見を募り、719通の建白書が寄せられたという。この行為は結果として将軍の権力や幕府の権威を下げることになってしまった。

●ペリー来航を詠んだ狂歌

 黒船が浦賀に来航したときの様子を表す、有名な狂歌が『江戸時代落書類聚(えどじだいらくしょるいじゅう)』(矢嶋松軒編/1915年)に収録されている。

「太平の眠りを覚ます 上喜撰(じょうきせん) たった四杯で 夜も眠れず」

 上喜撰とは、緑茶の銘柄である「喜撰」の上物、という意味。上喜撰と蒸気船、四杯と4隻をかけている。

■2回目の来航、そして開国へ

 1854年2月13日、ペリーは2回目の浦賀来航を試みた。1年後に再訪するという約束だったが、香港滞在中に将軍家慶の死を知ったペリーは、わずか半年で再び来航したのだ。今度は7隻を率いてやって来て、100発以上の空砲を発射した。1か月ほどの協議の結果、日本はついにアメリカの開国要求を受け入れるという結論を出した。3月31日にペリー配下の約500名は横浜に上陸して「日米和親条約」を、6月17日には「下田条約」を締結した。

■「日米和親条約」の内容とは

 1854年3月31日に結ばれた「日米和親条約(神奈川条約)」は、3代将軍徳川家光以来200年以上も続いた鎖国を解いて日本を開国させた。全12条からなる条約の内容は下記の3つに整理できる。

・下田(伊豆)と箱館(現在の函館)の開港

 アメリカは東アジアと貿易するために、補給拠点として日本の港を必要としていた。下田と箱館が選ばれたのは、補給の利便性を重視したものだった。

・アメリカに片務的最恵国待遇を与える

 最恵国待遇とは、ある国(日本)が、A国(アメリカ)に最恵国待遇を与えると、後にB国と結んだ条約の内容がA国にも自動的に適用される、というもの。そして「片務的」とは、日本だけが義務を負う、ということ。

・アメリカ政府は下田に領事を置くことができる

 アメリカは下田の玉泉寺に領事館を構え、初代駐日本国アメリカ合衆国大使に、外交官のタウンゼント・ハリスが就任。ハリスが体調を崩して幕府に看護婦を要請した際、幕府は妾の斡旋依頼だと誤解し、派遣されたのが「唐人お吉」こと芸者の斉藤きちだった。

【ポイント解説】通訳が大変だった!

 史上初の日米交渉といえる「日米和親条約」の協議は、通訳が大変だったというエピソードが残っている。日米双方にオランダ語が分かる通訳がいたため、会話での話し合いは英語ーオランダ語ー日本語と終始オランダ語を介して行われた。また文書については英語ー漢文(中国語)ー日本語というパターンも使われた。ちなみに、この協議のために、アメリカ生活が豊富で英語に堪能なジョン万次郎が旗本に取り立てられたが、スパイ容疑をかけられて通訳の仕事から外されてしまった。

■「日米和親条約」のその後、幕末へ

「日米和親条約」は日本の開国を決定しただけで、貿易に関する記載がなかった。そのため4年後の1858年7月29日、タウンゼント・ハリスが「日米修好通商条約」という不平等条約を結んだ。なお、ペリーはこの年に病気で死去した。この後、江戸幕府はロシア、オランダ、フランス、イギリスとの間で交わされた同様の条約にも調印することとなり、一気に崩壊へと突き進んでいった。

●日本にラムネを伝えたのはペリーだった?

 ペリーが2回目に来航したとき、アメリカ側は日本の使いに船上でフランス料理をふるまい、日本側は横浜の応接所で本膳料理をふるまった。黒船には炭酸レモネードが積んであり、これが日本に炭酸飲料が伝わった最初だ、という説がある。

■ペリー来航ゆかりの場所

●ペリー艦隊来航記念碑(〒415-0023 静岡県下田市)

 1966年に作られた、ペリーの胸像が建てられている。ちなみに下田は、下田条約の締結後、ペリーが最後に踏んだ土地。

●ペリー記念館とペリー上陸記念碑(〒239-0831 神奈川県横須賀市久里浜)

 1回目の来航時、フィルモア大統領の国書を渡すために上陸したのが、久里浜。ペリー上陸記念碑は1901年に建立されたが、1945年に破壊されてしまった。しかしその後に再建され、記念碑周辺は公園化され、ペリー記念館が建設された。

■まとめ

 日本史上、ペリーの黒船来航から明治維新までの期間を一般的に”幕末”と呼んでいる。つまりペリーその人が江戸幕府終焉の引き金を引き、文明開化の時代へと背中を押したと言ってもけっして過言ではないだろう。

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