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斎藤一は「新撰組最強の剣士」だった!? 謎多きその生涯に迫る

斎藤一は「新撰組最強の剣士」だった!? 謎多きその生涯に迫る

「新撰組」のメンバーといえば、すぐに思い浮かぶのが沖田総司や近藤勇、土方歳三など。だが、斎藤一という人物をご存知だろうか? 斎藤は結成当時からの新撰組メンバーであり、”無敵の剣”の使い手として達人ぞろいで知られる新撰組の中でも一、二を争うほどの剣術の腕前を持っていた。そして若くして管理者として組織内の重要なポジションを任されたばかりか、戦闘員としても新撰組関連のおもだった事件や戦争のほとんどに参加し、最前線で体を張り通した。

 斎藤一は、文字通り最初から最後まで新撰組の中心的人物であり続けたにもかかわらず、その出自や経歴には未知の部分が多く、いまだに解明されていない。今回は「新撰組最強の剣士」斎藤一のミステリアスな生涯に迫ってみたい。

■謎多き最強剣士、斎藤一のプロフィール

 斎藤一(さいとう・はじめ)には改名癖があったのか、多くの名前が残っている。本名として知られるのは山口一、斎藤一、藤田五郎の3つ。別名として知られるのも山口二郎(次郎)、一戸伝八、一瀬伝八の3つである。山口一は出生時の名前で、斎藤一は京都に行った19歳のときから名乗り始めた。新撰組時代の後期には山口二郎、戊辰戦争では一戸伝八または一瀬伝八の名で活躍した。その後、高木時尾との結婚をきっかけに藤田五郎に改名している。あまりに多くの改名を重ねたせいか、斎藤一と藤田五郎は別人であるという説まで出てきたが、現在は否定されており、同一人物であることが確認されている。

 斎藤一は1844年1月1日に誕生した。元日生まれのため、「一」と名づけられたらしい。父親は播磨国明石藩の足軽だったが、江戸へ出て石高1,000石の旗本、鈴木家の足軽になったとされ、出身地には江戸や明石藩、会津藩など諸説ある。

 身体的な特徴としては背が高くて痩せていると言われてきたほか、左利き説もまことしやかにささやかれ、フィクション作品に登場する斎藤一の多くは左利きとして描かれている。しかし事実かどうかは分からない。

 2度結婚していたという話もある。1人目の妻は斗南藩の五戸で結婚した篠田やそと言われている。2人目の妻は斎藤の妻として世間に知られ、3児をもうけた高木時尾である。なぜ結婚歴が不明なのかというと、戸籍に篠田やその名前も再婚とも書かれていないからだ。篠田やそとは入籍していなかったのかもしれない。

■経歴1〜新撰組脱退まで〜

 それではもう少し細かく斎藤一の人生を見てみよう。

●武士を殺して京都へ

 山口一は19歳のときに江戸で旗本の武士と口論になった末、斬り殺してしまった。当時の「旗本」とは石高1万石未満で、将軍に直接拝謁できる「殿様」と呼ばれる身分だった。その日のうちに家族に旅支度をさせられ、追い立てられるように京都へ向かった。京都では斎藤一と名前を変えて、剣術道場の師範代として身を隠した。

●壬生浪士組に入隊し、幹部に抜擢

 1863年に結成された新撰組の前身である「壬生浪士組」に、結成日当日に応募し入隊した。壬生浪士組は京都守護職の会津藩主・松平容保の預かりとなり、斎藤は20歳の最年少でありながら、いきなり幹部である副長助勤に抜擢された。局長の近藤勇より10歳、副長の土方歳三より9歳も年下だった。

●新撰組で三番隊隊長、撃剣師範役に

 同年9月、働きを評価された壬生浪士組は「新撰組」という隊名を拝命した。斎藤一は芹沢鴨、新見錦を一掃した後の組織再編成で、三番隊隊長に指名された。ちなみに一番隊隊長は沖田総司、二番隊隊長は永倉新八であった。同時に斎藤一は撃剣師範役も任され、新撰組内部の剣士の育成に関わっている。ここからも斎藤一への評価と信頼度の高さがうかがえる。

●池田屋事件

 1864年7月8日の池田屋事件には土方歳三隊の一員として参加し、事件後に会津藩から恩賞が与えられた。池田屋事件とは尊王攘夷派である長州藩、土佐藩などの志士の会合を襲撃し、新撰組の名を世に広く知らしめた事件である。

●粛清役として隊士を暗殺

 斎藤一は新撰組内部で隊規を破った者や間者、裏切り者などの多くを粛清したとされ、御倉伊勢武、荒木田左馬之助、武田観柳斎、谷三十郎を暗殺したという説がある。

●スパイとして潜入

 1867年3月、伊東甲子太郎が新撰組を離脱して御陵衛士を結成する際、斎藤はスパイとして御陵衛士に参加した。直接的に手を下したわけではないが、斎藤が新撰組に持ち帰った情報に基づいて、伊東甲子太郎らが暗殺された油小路事件が起きたとされている。

●天満屋事件

 御陵衛士から新撰組に復帰すると、斎藤一は山口二郎(次郎)と改名した。1868年1月1日に天満屋事件が起きた。天満屋事件とは紀州藩士・三浦休太郎の警護をしていた新撰組7名が、海援隊士、陸援隊士16名に襲撃された事件で、後ろから斬りかかられた斎藤には落命の危機があったが、味方に助けられた。

■戊辰戦争に参加

 新撰組は、1868年から1869年の戊辰戦争に旧幕府軍として従軍した。戊辰戦争は最後の将軍、徳川慶喜による大政奉還後に勃発した旧幕府軍と新政府軍の内戦である。斎藤一(山口二郎)は有名な鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦いなど最前線で戦い抜いた。

 近藤勇が投降し斬首された後は会津藩の指揮下に入り、ケガをしていた土方歳三の代わりに隊長として新撰組を率いた。会津藩内で決死の戦闘を続けるも、圧倒的な兵力や武器の差で敗戦が続き、ついに会津藩は降伏したが、斎藤一(山口二郎)はその後も抵抗を止めなかったという。戊辰戦争後は会津藩士と一緒に謹慎生活に入り、会津藩から新たに命名された斗南藩への集団移住にも従い、下北半島の五戸(現:青森県三戸郡五戸町)に移住した。

【ポイント解説】とにかく剣の腕前がピカイチだった!!

 斎藤一は沖田総司、永倉新八と並び新選組最強の剣士の一人だった。永倉新八が残した「沖田の剣は猛者の剣、斎藤の剣は無敵の剣」という言葉は、斎藤一の剣のすさまじさを語る非常に有名なフレーズである。

 一方で、斎藤が修めた剣術の流派はいまだに不明である。父親の山口祐助が聖徳太子流とともに会津藩でさかんだった溝口派一刀流を学んだと言われているため、斎藤は一刀流であるとする説がある。その一方で無外流と考える人もいる。いずれにしろ19歳で剣術道場の師範代になったというのは、やはり並大抵の腕前ではなかったのだろう。

■経歴2〜晩年〜

●倒幕後は斗南藩士に

 会津藩は改易で家名断絶したが、新たに斗南藩として再興が許された。斎藤一は斗南藩の五戸で元会津藩士の娘、篠田やそと結婚した。このあたりの経緯は不明だが、1874年に元会津藩大目付である高木小十郎の娘、高木時尾と再婚した。このときの仲人は元会津藩主・松平容保や家老が務めている。結婚を機に藤田五郎と改名した。

●東京へ移住し警視庁に

 1874年に東京へ引っ越し、警視庁に採用された。1877年に九州で西郷隆盛を盟主とする士族反乱、西南戦争が勃発すると、警部補に昇進した斎藤一(藤田五郎)は、別働第三旅団豊後口警視徴募隊二番小隊半隊長として参戦した。斬り込んで負傷したものの、新聞の記事になるほどの活躍を見せた。戦後に戦績が認められ、明治政府から勲七等青色桐葉章と賞金が与えられた。

●警視庁退職後

 1892年に警視庁を退職すると、1899年までは東京高等師範学校附属東京教育博物館(現在の国立科学博物館)の守衛、東京高等師範学校(現在の筑波大学)の撃剣師範を務め、1909年までは東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)に庶務兼会計係として勤務した。

●武士らしい最期!?

 斎藤一は1915年9月28日、胃潰瘍のため71歳で死去した。最期は寝込んでいたのに突然起き上がり、床の間であぐらをかいたとも、正座したとも、結跏趺坐(けっかふざ、瞑想の座法)したとも言われている。墓は福島県会津若松市の阿弥陀寺にある。

【ポイント解説】剣術の腕前は最後まで衰えなかった!

 1888年の警視庁による剣術家名簿の中に「藤田五郎」の名前が見られ、級位は4級になっている。当時の4級には川崎善三郎、門奈正、内藤剛志という錚々(そうそう)たるメンバーが名を連ねていた。この3人は剣術家の最高位である日本武徳会剣道範士にまで登り詰めている。この事実から見ても斎藤の腕は本物であり、晩年までその腕が衰えていなかったとみて間違いないだろう。

■斎藤一にまつわる謎とは

 ここまで斎藤一の人生を振り返ってみたが、どう思っただろうか? 殺伐とした幕末の時代に、幕府の最後の砦となった新撰組。その中心メンバーなのに、やはり斎藤一は、その存在自体が謎めいている。前記した部分と重なる点もあるが、ここでもう一度、斎藤一に関する謎を整理してみよう。

●家族

 斎藤の誕生日は”一”という名前の由来になっているため、1月1日の元日で間違いないと思われるが、出身地には諸説あるし、経歴にも不明な空白期間がある。1人目の妻とされる篠田やそは実在の人物かどうかも分からない。

●新撰組以前の経歴

 19歳のとき江戸で旗本を斬殺し京都に身を隠したこと以外は謎。旗本を斬った理由も分からない。

●試衛館との関係

 試衛館は近藤勇の養父が江戸で創設した天然理心流剣術の道場で、近藤をはじめ、土方歳三、沖田総司、山南敬助、永倉新八、藤堂平助など新撰組の中核メンバーたちが在籍していた。斎藤が試衛館にいたという証拠はないが、隊長への抜擢など新撰組結成以前に何らかの関係性があったという可能性は捨て切れないだろう。

●名前を変え続けた

 前述したように、斎藤はまるで逃亡犯のように多くの変名を持っている。山口一として生まれたが、旗本を斬ってしまったため斎藤と名字を偽ったのは分かる。しかし御陵衛士への潜入から新撰組に復帰した際に、なぜ山口二郎(次郎)に改名したのかは不明だ。この名前の由来は山口家の次男坊ということだろう。一戸伝八および一瀬伝八という名前は、会津で降伏した後に名乗っていた。たしかに新撰組時代と同じ名前では不都合だろうから、これも納得できる。しかし2度目の結婚の後に藤田五郎になった理由は謎である。藤田は妻の母方の姓であるという説や、会津藩主・松平容保から賜ったという説も存在する。斎藤はなぜこんなにも改名を重ねたのだろうか?

●会津藩との関係

 戊辰戦争以降、斎藤は異常と言っていいほど会津藩への愛着と忠誠心を見せている。最後の最後まで会津藩のために戦ったばかりか、敗戦後も他国に逃げることなく会津に留まって謹慎した。やがて会津藩士の扱いを受けるようになると、旧藩主の仲人で会津藩の高級藩士の娘と結婚している。会津藩と斎藤の関係は定かではないが、縁が深いのは間違いない。

■キャラクターとしても人気に

 謎だらけの人生とはいえ、斎藤も他の主要メンバーと同じく、数多くの新撰組関連作品に登場する。斎藤の名を現代に大きく知らしめたのは、やはり漫画『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』(和月伸宏/集英社)を原作とした作品群だろう。斎藤は斎藤一および藤田五郎という名で登場し、元新撰組三番隊隊長という肩書で、維新後は明治政府の警官というそのままの設定になっている。この作品群でのビジュアルや性格があまりにも印象的なため、斎藤一の実物イメージとして一人歩きした感さえある。実写映画版では江口洋介が熱演し話題になった。

 その他にも女性向け恋愛アドベンチャーゲーム『薄桜鬼 〜新選組奇譚〜』や、スマホ向けアクションRPGゲーム『モンスターストライク』などに、斎藤一というキャラクタが登場して人気を博している。

■まとめ

 斎藤一は新撰組最強の剣士として江戸時代末期の幕末を暴れ回り、維新の時代を駆け抜けた。そして明治時代に入っても黙々と仕事をこなしながら結果を残し、短命だった仲間たちをよそに見事に天寿を全うしたのだ。2016年、斎藤の子孫の家に保管されていた本人の鮮明な写真が2枚公開された。1897年(53歳当時)に撮影された写真に写る斎藤の姿は、謎に包まれた彼の人生の一端を解き明かしてくれるだろう。

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