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井伊直弼が「安政の大獄」を実行した理由と、皮肉な結果とは!?

井伊直弼が「安政の大獄」を実行した理由と、皮肉な結果とは!?

 “大獄”という世にも恐ろしい名前がつけられた日本史上の大事件「安政の大獄」をご存じだろうか? その名の通り、短期間に多くの人が捕らえられ罰せられた、弾圧政策である。幕末の動乱期に将軍に次ぐナンバー2の地位に就いた井伊直弼(いい なおすけ)が命令し、自らが暗殺される原因になったといわれるが、はたして事実はどうだったのだろうか?

■ざっくり解説「安政の大獄」ってどんな事件?

「安政の大獄」を分かりやすく要約してみると、江戸幕府の大老、井伊直弼が自分の政敵を大量に排除した事件である。幕末の1858(安政5)年に始まり、1860年に「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺されるまで続き、その間に処罰された関係者は処刑者7名を含む100名以上にのぼった。事件のきっかけは主に「将軍継嗣(けいし)問題」と「安政五カ国条約」の二つである。

■事件に至った背景

「安政の大獄」はなぜ起こってしまったのだろうか? もう少し詳しくその背景と経緯を追ってみよう。

●ペリーの黒船来航から開国へ

 1842年に中国の清朝がアヘン戦争でイギリスに敗北した。この事実は約200年にわたる鎖国状態にあった日本に大きな衝撃と危機感を与えた。こうして憂国の気分が盛り上がりを見せはじめていた1853年に「黒船来航」したペリーに開国を要求されると、動揺を隠し切れなくなった幕府は半年後に事実上の開国宣言に踏み切った。そして1854年にアメリカと「日米和親条約」を結び、1855年にロシア帝国と「日露和親条約」を結んだ。このあっという間の開国には、将軍の交代が大きく関わっている。そしてこの将軍交代劇こそ、安政の大獄の原因ともなったのだ。

●「将軍継嗣問題」の勃発

 ペリーの黒船来航から、わずか10日後に第12代将軍、徳川家慶(とくがわ いえよし)が死去し、徳川家定(とくがわ いえさだ)が第13代将軍に就任した。しかし新将軍の家定は病弱で政務を執行する能力に欠けており、外国諸国とさまざまな外交をこなす必要がある江戸幕府のトップを務めるのは難しいという見方が多かった。また跡継ぎにするべき子どももいなかった。そのせいで勃発したのが「将軍継嗣問題」と言われる後継者争いだった。家定の“次の将軍”をめぐって擁立された二人の候補者を支持する人々が激しく対立したのである。

●一橋派VS南紀派

 一人目の候補者は前水戸藩主、徳川斉昭(とくがわ なりあき)の子どもである一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)で、聡明なことで評判だった彼を支持した人々は、能力を重視する「一橋派」と呼ばれた。

 二人目の候補者は家定の従兄弟である徳川慶福(とくがわ よしとみ)で、紀州徳川家出身の彼を支持した人々は、血統を重視する「南紀派」と呼ばれた。

 一橋派と南紀派の争いが続いていた1857年、幕府はアメリカに有利な貿易を認める「日米修好通商条約」の締結を迫られた。調印に際して、幕府としては条約の正当性を主張するためにも勅許(朝廷の許可)を得たかったが、孝明天皇(こうめいてんのう)は拒否した。

●井伊直弼の大老就任と安政五カ国条約

 そんな混乱の最中にあった1858年6月、ついに「安政の大獄」の主人公である井伊直弼が大老に就任し、怒濤の歴史を刻みはじめた。彦根藩主で開国論を唱えていた井伊直弼は、大老に就任した直後の7月、朝廷の許しを待つことなく「日米修好通商条約」という不平等条約に調印した。また井伊直弼は南紀派であったため、徳川慶福を次期将軍に指名して「将軍継嗣問題」に終止符を打った。

 さらに、立て続けに江戸幕府はオランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間に「日米修好通商条約」と同じような不平等条約を結んだ。これら5か国との間に締結した条約は「安政五カ国条約」と総称され、「安政の大獄」の二つ目の要因となった。また、タイミングを同じくして重体だった家定が死去し、慶福が家茂(いえもち)と改名して第14代将軍に就任した。

●朝廷と一橋派による猛反発

 井伊直弼が独断で対処した「将軍継嗣問題」と「安政五カ国条約調印」に、朝廷と一橋派は当然のごとく激怒し猛反発した。一橋派である前水戸藩主・徳川斉昭、尾張藩主・徳川慶勝(とくがわ よしかつ)、福井藩主・松平春嶽(まつだいら しゅんがく)は抗議のために連合を組み、決められた日以外に登城して井伊直弼を「無勅許調印は不敬」だと問い詰めた。井伊直弼はこれに激怒し、彼らを隠居・謹慎処分にした。

 また同じく一橋派の薩摩藩主、島津斉彬は自身の急死で頓挫してしまったが、5000人の兵を率いた上京を計画していた。一方、孝明天皇は幕府を無視して水戸藩へ直接「戊午の密勅」を下した。無勅許での「安政五カ国条約調印」に怒りを示した上で、幕政改革を命令するという内容だった。

 幕府は二つに割れ、本来政治には関わらないはずの朝廷が、十四代将軍家茂を擁する井伊直弼の南紀派を無視して、一橋派に指令を出す……という混乱した状況だったのだ。

■そして、弾圧が始まった……!

●実質的には、井伊直弼がすべて命令

「戊午の密勅」で朝廷に無視される形になった江戸幕府の危機を感じた井伊直弼は、徹底的な弾圧政策をとることにした。一橋派はもちろん、井伊直弼に反対の立場をとった尊王攘夷派など100名以上を処罰。処罰の対象は志士(活動家)や藩士から大名、朝廷内の宮家、公卿、名主や町人にまで及んだ。

 

●死刑・獄死

「安政の大獄」によって命を落としたのは、活発な活動をしていた志士たちが中心である。

・飯泉喜内(いいいずみ きない)

 一橋派に属した志士。幕末の公卿、三条実万(さんじょう さねつむ)に仕えていたが、ペリー来航に関して三条実万に「祈りの一言」を建白し、幕府を批判。押収された書類に多くの志士との手紙があったことから、大量の捕縛者を出すことになった「飯泉喜内初筆一件」が安政の大獄の端緒とも言われている。斬首。

・吉田松陰(よしだ しょういん)

 長州藩の志士、思想家。主宰する松下村塾で高杉晋作や伊藤博文らを教育した。無勅許での安政五カ国条約調印に激怒し、老中首座・間部詮勝(まなべ あきかつ)の暗殺計画である「間部要撃策」と、長州藩主・毛利敬親(もうり たかちか)と一緒に天皇に謁見して幕府を糾弾する「伏見要駕策」を画策するも失敗。江戸に送られ伝馬町牢屋敷に投獄されると、これらの計画を自ら進んで告白し斬首になった。

・橋本左内(はしもと さない)

 一橋派、福井藩士。福井藩主・松平春嶽の側近として「将軍継嗣問題」に介入したことをとがめられて斬首された。

・頼三樹三郎(らい みきさぶろう)

 一橋派、京都の儒学者。公卿たちに幕府を批判する説を植えつけ「戊午の密勅」に関係したとして斬首に処された。

・安島帯刀(あじま たてわき)

 水戸藩の家老。「戊午の密勅」と井伊直弼暗殺に関与したと疑われて切腹を命じられた。

・鵜飼吉左衛門(うがい きちざえもん)

 一橋派、水戸藩士。「戊午の密勅」に直接的に関与し、捕縛された京都で苛烈な拷問を受けた。そのあと江戸に移されて斬首になった。

●隠居・謹慎

 刑死は免れたものの、隠居、謹慎などの処分で実権を奪われた身分の高い大名や幕臣も多かった。

・一橋慶喜

「将軍継嗣問題」で後継候補の一人に挙げられた一橋徳川家の当主で、のちの第15代将軍、徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)。勅許なしの通商条約について、登城して井伊直弼を詰問し、罪状不明のまま隠居謹慎処分が下った。

・徳川慶篤(とくがわ よしあつ)

 徳川斉昭の嫡男で水戸藩主。勅許なしの通商条約締結への抗議として登城日に従わず、登城停止の処分を受けた。

・徳川慶勝

 尾張藩主。勅許なしの通商条約への抗議として登城日に従わずにいたため、隠居謹慎を命じられた。

・松平春嶽

 福井藩主で幕末四賢候の一人。一橋派で勅許なしの通商条約へ抗議したため、隠居謹慎の処罰を受けた。

・伊達宗城(だて むねなり)

 宇和島藩主で幕末四賢候の一人。一橋派で勅許なしの通商条約へ抗議したため、隠居謹慎の処罰を受けた。

・山内容堂(やまうち ようどう)

 土佐藩主で幕末四賢候の一人。一橋派で「将軍継嗣問題」に敗れたことに憤慨し、自ら幕府に隠居願いを提出した。そのあと謹慎の命が下った。

・堀田正睦(ほった まさよし)

 下総佐倉藩主でペリーの黒船来航による1854年の開国前後は老中首座を務めていた。また朝廷に「日米修好通商条約」の勅許を求めに行って失敗した当人である。「将軍継嗣問題」で南紀派から一橋派にくら替えしたため、罷免された。

・太田資始(おおた すけもと)

 前掛川藩主。罷免された堀田正睦らの代わりに2度目の老中を任されたが、結局は井伊直弼と対立して辞めさせられた。しかし「安政の大獄」後も幕府に登用され、人生で3度も老中になった。

・松平忠固(まつだいら ただかた)

 上田藩主で1854年の「日米和親条約」と1857年の「日米修好通商条約」の調印時には老中だった。実質的に無勅許での修好通商条約を断行したのは忠固だったともいわれている。その責任を取らされる形で、調印から4日後に老中を罷免された。

・本郷泰固(ほんごう やすかた)

 旗本だったが若年寄に抜擢され川成島藩主になった。しかし一橋派だったため1万石から5千石へ減封された上、川成島藩は消滅し旗本に戻された。

・土岐頼旨(とき よりむね)

 大目付、海防掛として「日米修好通商条約」の交渉に当たった。しかし一橋派だったために突如罷免され、隠居、差控(さしひかえ)を命じられた。

・石河政平(いしこ まさひら)

 一橋徳川家家老。一橋派だったため御役御免(おやくごめん)、差控になった上、700石を召し上げられた。

●「桜田門外の変」で終了へ

 1858年6月の大老就任から約2年後の1860年3月24日、江戸城の桜田門外で行列を襲われた井伊直弼は首を取られて即死した。襲撃したのは水戸藩、薩摩藩出身の浪士たち18名だった。この「桜田門外の変」によって「安政の大獄」は終わりを迎えたが、白昼堂々と大老が殺されるという事件は、幕府の威信を著しく失墜させた。また一方的な激しい弾圧によって失われた人材やモラルは取り返しがつかず、結果的に倒幕を早めたといわれている。

■ドラマや小説化された

 苛烈な弾圧事件を起こし暗殺で散った井伊直弼の人生はドラマチックで、さまざまな作品の題材になっている。

 幕末から明治維新という激動の時代を舞台にしたNHK大河ドラマ『花燃ゆ』(2015年)で、井上真央が演じた主人公は「安政の大獄」で刑死した吉田松陰の妹だった。もちろん「安政の大獄」について描かれており、俳優の高橋英樹が井伊直弼役を演じた。『鞍馬天狗』の著者として有名な小説家、大佛次郎(おさらぎ じろう)も、自分の作品の中で何度も井伊直弼を取り上げている。

■まとめ

「安政の大獄」が井伊直弼暗殺の引き金になったのは疑いようのない事実である。江戸幕府の危機を救おうとした行動が、自分の命と幕府の命運をも尽きさせる結果になったのは、皮肉としか言いようがない。井伊直弼が守ろうとした江戸幕府が倒れたのは、彼の死から7年後のことだった――。

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