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「桜田門外の変」で斬られた井伊直弼、実は“名君”だった!?

「桜田門外の変」で斬られた井伊直弼、実は“名君”だった!?

「桜田門外の変」はたびたび小説や映画、テレビドラマの題材として取り上げられるほど日本史上の有名な暗殺事件である。この事件で暗殺されたのは当時の幕府の実質的な最高権力者、井伊直弼(いい なおすけ)であることは比較的よく知られている。しかしなぜ、彼は殺されなければならなかったのだろうか?

■まずはざっくり解説「桜田門外の変」

「桜田門外の変」を分かりやすく要約すると、1860(安政7)年3月24日の朝、江戸城の桜田門外で江戸幕府の大老・井伊直弼が、水戸藩・薩摩藩の浪士たちに襲撃され、暗殺された事件である。白昼に幕府の要人が斬り殺されるというのは、当時としても非常にショッキングな出来事であり、“幕末”を象徴する事件の一つに挙げられる。

■井伊直弼ってどんな人だった?

 1815年、戦国時代に“井伊の赤備え”と恐れられ、徳川四天王や徳川三傑とうたわれた彦根藩(現在の滋賀県彦根市)の初代藩主・井伊直政(いい なおまさ)を輩出した名家に、井伊直弼は生まれた。父親は名君で知られた第11代彦根藩主・井伊直中(いい なおなか)、母親は彦根御前と呼ばれた才色兼備の側室・お富である。

 しかし井伊直弼は庶子(側室の子ども)のうえに14男だったため、家を継ぎ藩主になれる可能性は限りなくゼロに近かった。17歳から32歳までの15年間は、彦根城の隅に建つ質素な屋敷を自ら“埋木舎(うもれぎのや)”と命名し、世捨て人同然の貧乏暮らしをしていた。この頃、井伊直弼が書いた文章が残っている。

これ世を厭ふにもあらず、はた世を貪るごとき、かよわき心しおかざれば、望み願ふこともあらず。 ただうもれ木の籠り居て、なすべき業をなさましと、おもひて設けし名にこそといらへしままを、埋木舎うもれぎのやのこと葉とす。(『埋木舎の記』より抜粋)

(訳:世の中は嫌いではないが、もう出世したいという望みはない。ただ埋木のように閉じこもって自分のすべきことに取り組もう)

 こう決心した井伊直弼は、茶道や和歌・書・歌・能・狂言・鼓・禅・兵学・居合術などさまざまなことに没頭した。没頭するあまり、茶・歌・鼓を合わせて“チャカポン”という趣味人らしからぬニックネームまでもらった。井伊直弼はマルチな才能を見せ、居合では新心新流を開いた。また茶道でも奥義を極めて一派を確立するほどになり、現在でも一般的に使われる「一期一会」という茶道由来のことわざを広めたと言われている。

 そして1846年、井伊直弼の人生に劇的な転機が訪れた。当代藩主の跡継ぎが亡くなり、なんと直弼が井伊家の家督を相続して彦根藩の後継者になることが決まったのである。というのも、直弼以外の兄弟たちはすでに全員が養子として他家を継いでおり、跡継ぎになれるのは売れ残っていた直弼しかいなかったからだ。

 1850年に前藩主が死去すると、井伊直弼は正式に彦根藩主に就任した。藩政を大胆に刷新する改革を行ってすぐに人気者になり、父と同じく名君の呼び声が高くなった。ちなみに井伊直弼が藩主として最初に行ったことは、前藩主が残した1年分の藩の収入に匹敵するお金を、藩民に分け与えることだったという。またそれ以降も、彦根に帰国するたびに藩民の生活を視察に出かけ、困っている人に救いの手を差し伸べたというエピソードがある。

■もっと詳しく知りたい!「井伊直弼はなぜ、暗殺されたのか?」

●事件の背景

 1853年7月から、日本はいわゆる“幕末”という激動の時代に突入することになった。開国を要求するアメリカ合衆国大統領の国書を持ったペリーが、黒船に乗って来航したのだ。これは井伊直弼が彦根藩主として表舞台に躍り出てから、わずか3年後の出来事であった。

 井伊直弼は、最終的には「いったん開国して海外貿易を行って富国強兵を果たしたあと鎖国に戻す」という条件つきの開国論を主張した。

 そんな状況の中、平行するように起こったのが「将軍継嗣問題」だった。ペリー来航から10日後に将軍・徳川家慶(とくがわ いえよし)が病死し、病弱で跡継ぎもいない徳川家定(とくがわ いえさだ)が第13代将軍に就任したため、将軍後継者争いが勃発。一橋派と南紀派が激しく対立したのである。

【一橋派】

跡継ぎ候補:一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)
主なメンバー:前水戸藩主・徳川斉昭(とくがわ なりあき)、福井藩主・松平春嶽(まつだいら しゅんがく)、薩摩藩主・島津斉彬(しまづ なりあきら)

【南紀派】

跡継ぎ候補:徳川慶福(とくがわ よしとみ)
主なメンバー:彦根藩主・井伊直弼、会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)、老中・松平忠固(まつだいら ただかた)

 そうこうしている間に、将軍が交代したことを知ったペリーが約束の1年を待たずに再び来航し、開国を迫ってきた。ここで条件つきの開国を認める和親論を訴える井伊直弼と、絶対に開国を認めない打払い論を訴える徳川斉昭の対立が決定的になった。この二人は「将軍継嗣問題」でも南紀派と一橋派に別れて争っており、最大の政敵同士であった。

 1854年3月31日、日本はアメリカの開国要求を受け入れて「日米和親条約」を結んだ。結論だけ見れば、開国論を支持した井伊直弼が勝利したように思えるが、事情はそれほど簡単ではなかった。鎖国体制は放棄したものの、要人たちのさまざまな思惑は複雑に絡み合ったままだったのだ。

 そんな混乱状態のままで、幕府は初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使、タウンゼント・ハリスに貿易を認める条約の締結を迫られるようになり、1857年から具体的な協議に入ることになった。この段階になって勅許(朝廷の許可)を得ることで世論を納得させようと思った幕府は、3月に京都入りして孝明天皇(こうめいてんのう)の勅許を得るために奔走したが結局は失敗に終わった。この失敗を報告しに行ったとき、将軍・家定が「家柄にしても人物にしても大老は井伊直弼しかいない」と言ったため、井伊直弼の大老就任が決まったとされている。

 1858年6月4日、井伊直弼は江戸幕府における将軍の補佐役で、実質的な最高権力者である大老に就任した。井伊直弼は開国も貿易も認める立場を取っていたが、無勅許での条約調印には最初から最後まで反対していた。調印当日7月29日の閣議でも勅許優先を主張したが、実際の交渉担当者に「やむを得ない場合は調印してもよいか?」と尋ねられると「そのときはやむを得ないが、なるべく調印せずに引き延ばすように」と答えた。しかし大老の言質を取ったと思った担当者は、その数時間後に「日米修好通商条約」に調印した。

 この事実に激怒したのは孝明天皇をはじめとする朝廷だった。その証拠に同年9月14日に幕府を通すことなく「戊午の密勅」(ぼごのみっちょく)で水戸藩へ直接、攘夷推進、公武合体、幕政改革などの指令を下したのだ。この一件で幕府の存続に危機感を抱いた井伊直弼が行った弾圧政策が「安政の大獄」である。「戊午の密勅」を受け取った水戸藩の関係者はもちろんのこと、「将軍継嗣問題」で対立していた一橋派に近い皇族や公家、大臣、僧侶、藩主、幕臣、浪人、学者、名主、町人たちを徹底的に弾圧した。

●水戸藩の内情

 一方の水戸藩も、「戊午の密勅」への対応で、空中分解してもおかしくないほど揺れに揺れた。藩内は密勅の内容を実行すべしという過激派と、勅書は朝廷か幕府に返納すべしという鎮静派に分裂して激しく対立してしまったのである。また「安政の大獄」では前藩主・徳川斉昭が永蟄居(一生の謹慎)、藩主・徳川慶篤(とくがわ よしあつ)が隠居謹慎を命じられたほか、家老・中山信宝(なかやま のぶとみ)と安島帯刀(あじま たてわき)らも処罰を受け、特に帯刀は切腹させられた。それでも事態を収拾することができなかった井伊直弼は、数度に渡って水戸藩に勅書の返納を要求し、藩を取り潰して改易する可能性まで示唆した。

 この井伊直弼の対応に激怒したのが過激派の水戸藩士たちだった。彼らは以前からよしみを通じていた薩摩藩士らと具体的な計画を練りはじめた。その計画とは、江戸での井伊直弼暗殺と同時期に、薩摩藩主・島津斉彬が兵を率いて上京し、天皇の勅書を受けて幕政改革を行うというものだった。しかし斉彬が急死すると薩摩藩は挙兵せず、次の藩主となった島津茂久(しまづ もちひさ)は過激派を説得して藩内を沈静化することに成功した。しかも上京計画が頓挫したことを水戸へ知らせなかった。そして、ついに運命の日がやって来るのである。

 なお、過激派の水戸藩士たちの怪しげな動きは、井伊直弼も察知していた。事件当日も井伊直弼の出発と入れ違いに、暗殺計画を知らせる手紙が彦根藩邸に届いていた。

■そして、ついに暗殺事件が勃発へ

「桜田門外の変」は1860年3月24日(安政7年3月3日)小雪がちらつく寒い日に発生した。午前9時頃、総勢60名からなる彦根藩の行列が、屋敷から約400メートルのところにある江戸城外の桜田門外で襲撃された。襲撃者の人数や人物には諸説あるが、水戸藩の脱藩者17名と薩摩藩士1名だったのではないかといわれている。

 井伊直弼は不意打ちの銃撃で重傷を負い、剣術の腕をふるうどころか、カゴから脱出することもできなかった。雪の上に井伊直弼のカゴが放置されて守る者がいなくなると、次々と刀が突き立てられた。とどめを刺したのは薩摩藩士・有村次左衛門(ありむら じざえもん)であった。既に血まみれで瀕死の状態だった井伊直弼をカゴから引きずり出し、一気に首を斬り落としたのである。その有村も彦根藩士に斬られて傷を負い、井伊直弼の首を引きずりながら、近江三上藩の若年寄・遠藤胤継(えんどう たねのり)邸の門前まで逃げて、自決した。井伊直弼の首はとりあえず遠藤家へ収容された。

 実際の戦闘時間は、わずか十数分程度だったという。短時間で井伊直弼暗殺に成功したものの、あとには首のない井伊直弼の死体をはじめ、討たれた多くの者たちが残されており、真っ白な雪が鮮血で真っ赤に染まった現場は、まるで地獄絵図のようだったという。この「桜田門外の変」は「桜田事変」や「桜田義挙」とも呼ばれ、事件が起きた1860年に合わせて様々な語呂合わせが作られている。

・一派群れ(1860)井伊片付ける 桜田門
・井伊は無礼(1860)と桜田門

●襲撃者18名のその後

 井伊直弼暗殺という本懐を遂げた襲撃者たちは、その後どうなったのだろうか?

・1名は戦闘中に斬り倒されて現場で死亡
・4名は戦闘で重傷を負い、逃れたが自決
・2名は自首し、戦闘で受けた傷が原因で死亡
・1名は自首した後に逮捕・取り調べを受けて絶食・餓死
・5名は自首した後に逮捕・取り調べを受けて斬首刑
・2名は戦闘に不参加だったが、逮捕されて取り調べを受けた後に斬首刑
・1名は追い詰められて自決
・1名は21年間の潜伏の後、事件については沈黙を守ったまま病死
・1名は潜伏後に改名し、明治維新後に警視庁・水戸県警察本部に勤務した。事件のことは一切語らず76歳で死亡したが、襲撃の一部始終を伝える遺稿を残した。

●彦根藩側の被害

 彦根藩の行列には60名いたが、急襲に驚いて逃げ出した藩士や丸腰の人足なども多かったため、実際の戦闘参加者は少なかったと言われている。

・井伊直弼以下4名が現場で即死
・4名が戦闘で重傷を負い、現場からは逃れたが死亡
・5名が重軽傷を負って帰宅したが、家名を辱めたとして重傷者は幽閉、軽傷者は全員切腹
・7名が無傷で帰宅したものの、井伊直弼の護衛に失敗したとして斬首刑

■事件の影響

「桜田門外の変」は、江戸幕府の権威を大きく失墜させただけでなく、反幕派の活動および尊王攘夷運動の激化をうながした。幕府では復活した一橋派が「文久の改革」を行い、1862年に一橋慶喜が将軍後見職、松平春嶽が政事総裁職に就任した。また同年に将軍・家茂と皇女・和宮(かずのみや)の婚儀が成立して公武合体路線も進められた。そして1867年に第15代将軍になった徳川(一橋)慶喜が大政奉還し、1868年に江戸城が開城された。

●ポイント解説:水戸市と彦根市の和解

「桜田門外の変」の影響は長く続き、江戸幕府が倒れて時代が変わっても、水戸市と彦根市の関係が修復されることはなかった。事件から109年後の1968年10月29日、福井県敦賀市が仲介して親善都市提携を結び、ようやく正式に和解した。

 しかし長きに渡る確執やわだかまりは、そう簡単に解消されるものではなかったようだ。2013年4月の彦根市長選挙で、当時現職だった市長が対立候補に対して、井伊直弼の首を斬った人物の子孫が市長選挙に出馬することは容認できない、などと主張。現職市長が批判を浴びて落選した。

■井伊直弼の謎「首はどこへ消えた!?」

 遠藤家に置かれた井伊直弼の首の行方については、事件があった日の夕方に井伊家へ届けられて彦根藩邸で胴体と縫い合わされたという説や、襲撃者の一人である水戸藩の浪士が甘酒樽に詰めて水戸へ持ち帰ったという説がある。

 後者の説では水戸市内の袴塚町にある日蓮宗・本行寺本堂廊下の下に埋めたという言い伝えが残っており、1967年に掘り起こしてみると頭蓋骨が出てきた。そのため丁寧に供養して、首を持ち帰った浪士が眠る水戸市見川にある日蓮宗・妙雲寺へ葬った。

 ところが井伊家側は直弼の首は、事件当初から井伊家の菩提寺である世田谷区の曹洞宗・豪徳寺に埋葬されていると主張している。しかし2012年に世田谷区が調査したところ、豪徳寺にある井伊直弼の墓には、石室などの埋葬施設が地下3メートル以内には存在しなかったことが判明した。井伊直弼の首は一体どこにあるのだろうか? その行方は未だに謎に包まれている。

●映画『桜田門外ノ変』

 2010年公開の映画『桜田門外ノ変』は、水戸藩の開藩400年を記念して茨城県内の自治体や企業などが全面協力して製作された。原作は吉村昭による上下巻の同名小説で、監督は佐藤純彌、主演の水戸浪士役を大沢たかお、井伊直弼役を伊武雅刀が演じた。襲撃シーンは実際の「桜田門外の変」を忠実に描くため、約2億5000万円を投じて巨大なオープンセットが組まれた。

■ゆかりの場所

 最後に「桜田門外の変」のゆかりの場所を紹介しておこう。

・水戸浪士の毛塚

(茨城県東茨城郡茨城町長岡1226)
 井伊直弼暗殺計画を実行するため江戸に出発する際、決意の証として水戸浪士が髪の毛を切って埋めた。1916年4月には、長岡青年会の発起により「桜田烈士記念碑」が建てられた。

・常磐共有墓地

(茨城県水戸市松本町13-34)
「水戸黄門」としても知られる二代目水戸藩主徳川光圀が、水戸藩士のために建立した墓地。事件で命を落とした水戸浪士9名の墓がある。

・妙雲寺

(茨城県水戸市見川2丁目103)
 水戸浪士1名の墓と、持ち帰られたと伝わる井伊直弼の首を供養する「井伊掃部守直弼台霊塔」がある。

・愛宕神社

(東京都港区愛宕1丁目5−3)
 襲撃前に浪士たちが成功を祈願したと言われ、襲撃者の名が刻まれた「桜田烈士愛宕山遺跡碑」がある。

・浄土宗 豊国山 回向院

(東京都荒川区南千住5丁目33-13)
 井伊直弼の首を落とした有村次左衛門など、刑死した水戸浪士の墓がある。他に「安政の大獄」で処刑された吉田松陰や、「鼠小僧次郎吉」の墓も。

・豪徳寺

(東京都世田谷区豪徳寺2丁目24-7)
井伊直弼のために殉職した彦根藩士8名の「桜田殉難八士之碑」と井伊直弼の墓がある。

■まとめ

 井伊直弼は、なぜ「桜田門外の変」で首を斬られたのか、その理由がお分かりいただけただろうか? この質問に簡単に答えるとすれば、やはり「安政の大獄」というキーワードは外せないだろう。井伊直弼が独裁的な恐怖政治をしなければ「桜田門外の変」という過激でテロ的な行為は起こらなかった可能性は否定できない。

 それにしても32歳まで“チャカポン”と呼ばれた趣味人が、あれよあれよという間に江戸幕府ナンバー2の地位に昇り詰め、短期間に独裁政治を断行して白昼暗殺されるなど誰が予想できただろうか? 井伊直弼という存在だけを見ても、“幕末”の激動ぶりを感じ取ることができるだろう。

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