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闘将・星野仙一、知られざる「熱血神話」と「感動秘話」

[週刊大衆2018年01月29日号]

闘将・星野仙一、知られざる「熱血神話」と「感動秘話」

 虎は死して皮を留め、人は死して名を残す。稀代の名将がその全身全霊をかけて残した“志”もまた、球界に受け継がれてゆく。合掌! 

 新年早々、衝撃の訃報が日本中を駆け巡った。中日、阪神、楽天――3つのチームの指揮官としてリーグ優勝4回、日本一1回の栄冠に輝いた星野仙一楽天球団副会長が、1月4日、すい臓がんにより70歳でこの世を去ったのだ。昨年11月28日、自身の野球殿堂入りを祝う会で元気な顔を見せてから、わずか1か月余りでの悲報だった。《バカヤローだよ。早すぎるよ、本当につらい》(大学時代からのライバルであり盟友の山本浩二氏)、《こんなに急に亡くなられるとは》(ソフトバンク王貞治会長)と、多くの野球人が、次々に談話を発表。その早すぎる死を悼んだ。

■“打倒巨人”で闘志満々!

 現役時代、そして監督となってからも、むき出しの闘志を隠さず“闘将”の異名を取った星野氏だが、その原点は、プロ入り時のある“挫折”にあった。事前に獲得の意思を伝えていた巨人が、一転、島野修投手を指名。「星と島を間違えたんじゃないか」と激怒した星野氏は、1位指名で中日に入団。そのときから「打倒巨人」を生涯のテーマとしたのだ。

《“打倒巨人”を前面に闘志満々でぶつかって来た投手だったからこそ、私も、さあ仙ちゃん来い、と心を燃やすことができ、対戦するのが本当に楽しみでした》という長嶋茂雄終身名誉監督の言葉通り、巨人戦でこそ最も燃える男。マウンドで吼え、一球に魂を込めて、V9時代の最強巨人を相手に、35勝31敗と勝ち越している。当時、中日の投手コーチを務めていた杉下茂氏が、星野氏の思い出をこう語る。「仙一の思い出は山ほどありますが、忘れられないのは1974年のリーグ優勝。祝勝会でビールを頭から浴びながら、“日本シリーズなんて邪魔だ! 巨人に勝って優勝したことがうれしいんじゃ!”と叫んでいました」

■中日ドラゴンズでリーグ優勝

 そんな星野氏が、39歳にして中日の監督となったのが87年。翌88年には、見事にリーグ優勝を果たした。その星野政権で90年代後半に入って頭角を現したのが、96年、07年と2度の本塁打王に輝いた山崎武司氏だ。99年には星野氏の2度目の優勝に貢献したが、当時は「監督と確執がある」と書き立てられもした。山崎氏が当時を述懐する。「僕は立浪(和義)さんや中村(武志)さんみたいに早くから一軍に定着したエリートじゃないから、“オレは、みんなほどかわいがられない”という気負いもあって、教え子の中ではベタベタするタイプじゃなかった。監督も“かわいくない奴やな”と思ってたんじゃないかな(笑)。人一倍、厳しい言葉をかけられた気がします」

 リーグ優勝した99年9月26日の阪神戦で山崎氏がサヨナラ3ランを放ち、一塁に走りながらベンチの星野氏に向かって、「オッサン! オレを出しとけば、ちゃんと打つんじゃ~!」と叫んだ話は語り草だ。「“日本シリーズには出さん!”と言われて、若かったのでカッと来たんです(笑)。そうして僕の闘争心をかき立て、発奮させていたのだと思います。ご本人が反骨の人でしたから、僕の中にも、そういう部分を見ていたんでしょうね」(前同)

 優勝の日、星野氏はその2年前に病で他界した夫人の写真をポケットに忍ばせ、神宮球場の夜空に舞った。「奥様とは学生時代に神宮球場で出会い、監督の猛アタックで交際、結婚にこぎつけたんです。その神宮での胴上げということで、さすがに、この日は“闘将”も男泣きしていたのを覚えていますよ」(専門誌記者)

■阪神タイガースでも優勝

 このまま「生涯中日」を貫くものと思われていたが、星野氏は01年オフ、突如、ライバル球団である阪神の指揮官となった。就任2年目には、25人もの選手を入れ替える大改革を断行。阪神をまったく新しいチームに作り替えた。当時のエース・藪恵壹氏がこう振り返る。「僕は中村勝広、藤田平、吉田義男、野村克也、星野仙一、岡田彰布という6人の監督のもとで野球をやって来ました。その中で、星野さんが最も厳しく、最も阪神に大きな改革をもたらした監督です」

 それまでの阪神は一、二軍の入れ替えも少なく、レギュラー陣にも競争意識はなかったという。しかし、あまりに有名な「勝ちたいんや!」という言葉を掲げた星野氏の改革によって選手に危機感が生まれ、“ダメ虎”を返上した。藪氏も、星野監督によって、投手として生まれ変わった一人だ。「星野さんが初めて“完投なんか狙わんでええ、行けるとこまで行ったら後はリリーフ陣でなんとかする”と言ってくれたんです。今は当たり前ですが、当時はまだ、そういう考えは一般化していませんでした。その言葉で、自分のマウンドを全力で投げ切ることができたんです」(前同)

 言葉だけでなく、徹底的に高めた得点力も投手を助け、03年の阪神は87勝51敗とぶっちぎりの成績で、18年ぶりに優勝。それ以降は上位争いの常連となる。

■北京オリンピックの代表監督に就任

 この優勝の翌年には、監督を退任。球団のシニアディレクターに収まったが、07年には北京五輪の代表監督に就任。「金メダル以外いらない」とぶち上げるも、本大会では4位に終わった。「緊張からかエース・上原浩治をはじめ不振にあえぐ代表選手が出る中、“選手を入れ替えてはどうか”との声も出てきましたが、星野さんは“ここで替えたら、彼らの野球人生はどうなる!”と断固拒否。上原には“どんなに不調でも、お前を選ぶ”と電話していました」(スポーツ紙デスク)

 準決勝の対韓国戦で3失点に絡む2失策、3位決定戦でも3失点に絡む失策を犯し、“世紀の失策”と呼ばれたGG佐藤を使い続けたのも、同じ理由だ。「今後のために、挽回のチャンスを与えたかったんでしょう。甘いかもしれませんが、星野さんは、そういう優しい人でしたよ」(前同)

■田中将大の活躍もあり、楽天を日本一に!

 生涯最大の挫折を味わった星野氏だが、10年10月27日、楽天の監督に就任。最後の大勝負に挑んだ。「当時の楽天は今よりはるかに弱く、周囲の人々も“これまでの経歴に傷がつく”と反対したようですが、野球への愛が反対の声をねじ伏せたんです」(前同)

 就任1年目の楽天はリーグ5位に沈むも、13年には田中将大(現・ヤンキース)の24戦無敗という獅子奮迅の活躍もあり、リーグ優勝どころか、宿敵・巨人を破って日本一に輝いた。「僕は11年で退団したので、その輪の中にはいられませんでしたが、震災後の東北が盛り上がってうれしかったし、チームに“勝ち”への執念を教えてくれたことに、とても感謝しています。今は“ありがとうございました”という気持ちしかないですね」(山崎氏)

 野球人として頂点を極めた星野氏。しかし、実は、まだまだ果たせていない大きな夢があったという。「彼は、ずっと“プロとアマの垣根を壊して、球界をもっと活性化させたい。もっと多くの選手に光を当てたい”と願い、アマチュア球界とも積極的に交流していた。殿堂入り記念パーティに、数百人のアマ関係者がいたこともその表れです。そのために、日本野球機構のコミッショナーに就任することも考えていたようです。常に、野球の未来を考えていた人でした」(星野氏と親しい明治大OB)

 優しき闘将の、惜しまれる死。しかし、その志は、必ずや次代に受け継がれていくだろう。

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