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【歴史ミステリー】黒田官兵衛が仕組んだ大坂城の攻め口

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大坂冬の陣で、真田幸村に南方の守りの弱さを指摘された大坂城。その縄張りは、築城名人と謳われた黒田官兵衛の手によるものだった。官兵衛は、この大坂城の弱点になぜ気付かなかったのだろうか?

織田信長と顕如の戦いの舞台跡に築かれた天下の名城

大坂城は、織田信長と浄土真宗の門主・顕如との間で争われた石山合戦の舞台・石山本願寺の跡地に建てられた城だ。

信長が抱く天下統一の夢。その天下統一をよしとしない顕如は、石山本願寺に籠り頑強に抵抗。その戦いは、元亀元年(1570)に始まり、天正8年(1580)まで11年にも及んでいる。

この石山合戦で信長は、完全な勝利を収めたわけではなく、顕如を本願寺から退去させることに成功しただけだった。信長は、その後の本能寺の変で倒れなければ、この本願寺跡地に城を築いていたと思われる。

この地は、地盤が堅固な上町台地の北端にあり、天守などの巨大建造物が建てやすい場所だ。また、城の北側には京から連なる大河・淀川の本流が流れ、物流の拠点としても有効な場所にあった。さらに、淀川は大坂湾に流れ込み、瀬戸内海航路の良港と繋がっていた。この淀川の流れは、大坂城を守る、天然の堀の役目も担っていたのだ。 


鉄壁の守りを誇る大坂城に官兵衛が犯した守りの弱点

天正11年(1583)、信長の後を継いだ秀吉は、石山本願寺跡に大坂城の築城工事を開始した。信長の後継者を自認した秀吉は、信長の安土城をモデルに大坂城を造ったともいわれている。

だが、秀吉は安土城と同じ規模の城を造る気はなかった。秀吉はこのとき、安土城を超える究極進化系ともいえる城造りをめざしていたのだ。

秀吉の造りあげた大坂城は、本城以外に城下町も堀や土塁で囲んだ「総構え」を持ち、天守は、『大坂夏の陣屏風』に描かれた絵図によると、5重6階の巨大なものだった。

そこへ黄金をふんだんに用いた瓦が乗せられた。また、御殿内部も秀吉好みの金の装飾にあふれた豪華なものだったと伝わっている。この、天守の建つ本丸の築造だけで約1年半を費やし、その後、15年かけて難攻不落の巨城に造り上げている。

この、大坂城の縄張りを担当したのが、大河ドラマ『軍師官兵衛』の主役、黒田官兵衛なのだ。

官兵衛は、石山本願寺跡の台地を造成し、堅牢な石垣を築いた。本丸は、上の段、中の段、下の段の三段重ねで、中の段と下の段には通路状の袖曲輪を設けて、守兵を配置できるようにして本丸の防御を強固にした。

また、その本丸を内堀と外堀で囲み、さらに天然の河川と運河によって囲む念の入れようで、鉄壁の防御態勢を敷いている。この大坂城の築城の様子を見学した、豊後の大名・大友宗麟は、この城を「三国無双の城」と讃えたという。

だが約30年後、大坂の陣で西軍に味方した真田幸村は、城の南側の守りの弱さを指摘。その防御を固めるため「真田丸」と呼ばれる出城を築いた。大坂冬の陣では、この真田丸のおかげで西軍は東軍の攻撃をしのいでいる。

しかしなぜ、官兵衛ほどの築城名人が、この欠点に気付かなかったのだろう。大坂城の縄張りは年月をかけて造られたものなので、官兵衛に責任はないかもしれないが、官兵衛の頭の中に、大坂城の完成予想図はできていなかったのだろうか?

大坂城以後、官兵衛が築いた城に豊前・中津城がある。この中津城の城下町は官兵衛の後、細川の時代のものだと思われていた。しかし近年の調査で、官兵衛の時代に基本的な町割りがなされていたことが分かってきた。中津城では官兵衛の頭のなかには未来の縄張りまで描かれていたのだ。


大坂城の攻め口に仕掛けられた官兵衛の巧妙なワナ

官兵衛は攻城の際、無益な力攻めはしなかったという。まずは説得工作から始め、その後、水攻め、兵糧攻めなど味方の被害を最小限に留める方策を練った。力攻めをする場合も、城の三方は取り囲むが、残る一方は敵の逃げ口として開けておいた。

城全体を囲うと、逃げ場を失った敵は死に物狂いで戦いを挑んでくる。すると必然的に味方の犠牲も多くなってしまうからだ。このような攻め方により、味方の犠牲を最小限に抑えていた。

大坂城の場合はどうか?

北には淀川、東西は掘割と運河によって防御は固く、防御が手薄といわれる南も、空堀とその内側には城下町が広がる。さらに攻めあがると外堀(水堀)、外堀を越えると内堀(空堀)がある。こちらも計3ヶ所の堀を越えなければならないが、そのうち2ヶ所が水のない空堀だ。この場合、攻城側は防御の弱い南から攻めるのが鉄則となる。

南から攻められると、城兵は城の北側に追い詰められ、城の防御のための淀川が城兵を苦しめると思われる。だが、城を守る城兵にとっては淀川の流れは、城からの脱出ルートになるのだ。官兵衛は北に脱出ルートを確保するため、あえて南に敵の攻め口を開けたのかもしれない。

また空堀は、石垣の降り昇りがあるが、歩いて渡れるため、水堀より攻めやすそうに思える。だが、固そうに見えた堀の底が水田のような泥濘だったら? 堀に侵入した攻城側は泥濘に足を取られ一網打尽となってしまう。天守が目前の内堀南の空堀は、官兵衛のワナだったともいえるのだ。

また、天下取りの夢を抱いていた官兵衛だけに、敢えて大坂城に「攻め口」を残したとも考えられる。空堀のワナも自分が仕掛けたため怖くはない。

だが、家康が関ヶ原合戦を一日で勝利し、天下取りの夢は潰えてしまった。「夏の陣」の後、大坂城は家康により破却され地下に埋められた。現存する縄張りは徳川時代のものだが、堀の位置は西側の内堀以外、そう大きく変わっていない。


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