「みちのく忠臣蔵」契機はどこに!?南部藩士「津軽藩主殺害未遂」の謎の画像
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 江戸時代、現在の青森県東部と岩手県北部にまたがって存在した南部藩(盛岡藩)。その殿様が戦国時代から遺恨を抱き続けた相手が“おとなりさん”。青森県西部を治めた津軽藩(弘前藩)の歴代藩主だ。

 そんな殿様の恨みを晴らそうと、文政四年(1821)には、南部藩士が津軽藩主殺害を計画。未遂に終わったものの、江戸では「みちのく忠臣蔵」と讃えられた。

 忠臣蔵というのはご存じ、赤穂浪士が主君の恨みを晴らした討ち入り事件のこと。この「みちのく忠臣蔵」とはどんな事件だったのか。また、その根深い遺恨の理由とは――。

 事件の引き金は文化二年(1805)、津軽藩の石高が四万七〇〇〇石から七万石、さらにその三年後に一〇万石と立て続けに増え、第一一代南部藩主・南部利敬が不満を募らせたことにある。

 この石高増は「高直り」の結果。高直りというのは、実際の知行地(藩領)を増やさず、形式的に石高だけを増やし、家格を上げること。当時の南部藩は一〇万の石高だったから、高直りとはいえ、家格で津軽藩に並ばれたことを意味する。

 同じ文化五年に南部藩も高直りで二〇万石となったものの、当然のことながら実際の石高は変わらず、逆に蝦夷地警護などの軍役負担だけが重くのしかかり、藩財政を圧迫。

 それでも藩主の利敬は家格争いにこだわり、藩士らも津軽藩が石高を急激に伸ばしたことに強い憤りを抱いたと伝わる。

 文政三年(1820)、利敬は津軽藩への遺恨を残したまま死去し、当時の津軽藩主・津軽寧親が従四位下・侍従に昇進すると、南部藩の世継にあたる利用がいまだ無位無官だったため、藩内の不満はより高まった。

 ここに、相馬大作(本名は下斗米秀之進)という南部藩士が登場。彼は江戸で砲術や剣術を学び、帰藩後に演武場を開くが、寧親の侍従昇進に不正があったと考え、亡くなった利敬の恨みを晴らすために浪人となって同志と津軽藩主の殺害を計画。

 大作らは翌文政四年(1821)四月三日、江戸を発って国元の弘前へ向かう寧親の行列を襲撃するため、秋田藩内の白沢村(大館市)で待ち伏せた。

 その際、寧親に「速やかに侍従の官を辞すべき」との勧告書を突きつけ、もし承諾しないなら、山の上に潜む同志が街道へ二〇挺の竹鉄砲を撃ち、行列を牽制する間に寧親を狙撃する計画だった。

 しかし、同志の密告によって事が露見。津軽藩は行列のコースを変更し、寧親は無事、弘前に帰国した。

 江戸へ逃れた大作は処刑されるが、彼の決起は江戸っ子の喝采を浴び、事件は講談や小説の題材としてもてはやされ、のちに幕末の有名人である藤田東湖らがその忠義を讃えた。

 とはいえ、本質は暗殺未遂事件というテロ行為。しかも、主君の恨みといっても背後にあるのは家格争い。高直しで藩政が苦しくなるのをいとわず、見栄を張ったように思える。では、戦国時代まで遡り、その遺恨の真相を探ってみよう。

 その時代の南部氏を語るには晴政と信直という二人の武将を避けて通れない。晴政は南部氏の全盛期をもたらし、その娘婿として養子になった信直は盛岡城を築き、初代南部藩主となった人物。彼が晴政の養子になるのが永禄八年(1565)。

 ところが、やがて晴政に晴継という実子が生れ、妻が死去すると、身の危険を感じた信直は、当時の居城三戸城(青森県三戸町)から実家のあった田子城(同県田子町)へ引き籠り、巻き返しの機会を窺う。この内紛がその後の南部氏にとって重大な禍根を残すのだ。

 南部氏にとって隣接する津軽半島(郡)は領内でも有数のコメどころだったため、郡代を派遣し、その補佐役だったのが大浦為信という武将。出自を含めて謎の多い武将だが、彼が下剋上の世にふさわしい野心家だったことは確か。

 彼は南部の晴政と信直との内紛に乗じ、元亀二年(1571)五月、津軽郡代の石川高信(信直の父)がいる城を攻め、自害に追い込む(生存説もある)。その後も為信は津軽の諸城を落として南部氏からその地を奪い取るのだ。

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