遠山の金さんの入れ墨のルーツ!?“名奉行”根岸鎮衛の出自と実像の画像
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 時代劇でおなじみの江戸の名奉行といえば、大岡越前と遠山の金さんだろう。

 その二人に比べると知名度は落ちるものの、根岸肥前守鎮衛も講談や時代劇で注目を集める名奉行の一人。ただし、出自に不明な点が多く、遠山の金さんとの意外な接点も囁ささやかれる謎の人物だ。さて、その実像とは――。

 根岸家が幕府に届け出た家譜によると、父は旗本の安生定洪。その三男に生まれ、同じ旗本の根岸家に養子に入ったとしており、れっきとした旗本の子弟に思えるが、これには事情がある(詳細は後述)。

 一方、ここから先は史実といえる。まず、宝暦八年(1758)、二二歳で養父・根岸衛規の後を継ぎ、その年に初めて九代将軍徳川家重に仕えた。

 以降、その能力を買われ、勘定吟味役、佐渡奉行を経て勘定奉行へ進み、寛政一〇年(1798)、江戸町奉行となって、在任期間は足掛け一八年に及んだ。また、佐渡奉行時代に書き上げた随筆『耳袋』の筆者としても知られている。

 家禄も根岸家を継いだときには一五〇俵取りという貧乏所帯だったが、奉行時代には五〇〇石取りとなり、晩年には一〇〇〇石へ加増された。

 このため、巷では鎮衛の出世を「飛ぶ鳥を落とせし……」と評し、「もとはガエン」だったという噂が飛び交った。ガエンは「臥煙」とも書き、煙を打ち負かす仕事、つまり、町火消しのこと。

 噂では、その町火消しだった鎮衛があるときに一念発起し、金を貯めて御お徒か士ち(下級武士)の株を買い、そこから立身出世していったというのだ。

 本当に彼が町火消し出身の町奉行なら前代未聞のこと。飛ぶ鳥を落とすほどの出世を妬む者がこういう噂を流したともいえるが、まんざらのデッチ上げとはいえない。

 というのも、実父の定洪は相模国の豪農(もとは小田原北条氏の家臣だったともいわれる)で「鈴木」の姓を名乗っていたが、旗本安生家の株を買い、侍になっているからだ。

 つまり、鎮衛自身は庶民の出身ではなかったものの、旗本の株を買った豪農出身の父の経歴と取り違えられているといえる。

 その鎮衛の裁きを象徴する話が「め組の喧嘩」と呼ばれる事件だ。鎮衛の名裁きに登場するのが町火消しというのも誤解を生んだ一因かもしれない。

 め組は「いろは四八組」に編成された町火消しの一つで、芝(東京都港区)辺りを区域とし、二〇〇人以上の鳶がいた。

 巷の話を集めた『街談文々集要』によると、事件は文化二年(1805)二月一六日、芝神明宮の境内で起きた。その日は境内で催された勧進大相撲の八日目。ちなみに当時の大関(最高位)は有名な雷電為右衛門だった。

 喧嘩の原因は諸説あるが、め組の頭・辰五郎と力士の九竜山(西二段目)との揉め事から始まり、集団の喧嘩になったところへ、火消し二人が火の見櫓へ上って半鐘を鳴らし、他の組の者らが駆けつけて応戦したことから収拾がつかなくなった。

 たとえば四車という力士(東幕の内前頭四枚目)は、桟敷にかかる三間梯子(約二・五メートル)を力にまかせて振り回し、境内から追い出された町火消しらが近くの商家の屋根に上り、めくった瓦を雨のように投げつけた。

 力自慢の力士と昇ることが得意な町火消し。両者、その長所を生かして“がっぷり四つ”という具合だ。

 この大乱闘に奉行所の捕り手が出動し、ようやく喧嘩は鎮まった。

 このとき鎮衛は、騒動を大きくしたのは半鐘のせいだとして、「半鐘を三宅島へ流罪に処す」という判決を下したという逸話が残る。

 しかし、それが事実だとしても、それで収まるはずがない。

 実際には火消し側が辰五郎の「中追放処分(江戸一〇里四方外への追放など)」をはじめ、多くの者が今でいう罰金刑に処せられた。

 ただし、力士側は九竜山が「敲き(叩き=体罰)の上、江戸払い」となったものの、他の者らは無罪放免。力士たちが相撲を行う神社仏閣は寺社奉行の管轄で、そのために鎮衛が配慮せざるをえなかったともいわれるが、実際にはそうではない。

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