松坂大輔、清原和博、清宮幸太郎…夏の甲子園「名勝負の裏側」とヒーローたちの「その後」徹底追跡20【画像】の画像
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 今年も高校野球の聖地が熱く燃える季節がやって来た。歴史に残る一戦と、スターたちの卒業後を追った!

 猛暑の続く夏。聖地・甲子園では今年も、球児たちが汗と泥にまみれている。

「怪物級はいませんが、2018年の金足農のエース吉田輝星(現・日本ハム)のように、ヒーローが突然、生まれるのも甲子園の醍醐味です」(アマ野球ライター)

 そこで今回は、歴代の甲子園ヒーローたちが、球史に刻んだ名勝負と、その後の人生を、当事者たちの証言も交えながら、振り返っていきたい(文中敬称略)。

■甲子園が生んだ元祖アイドル

 甲子園が生んだ“元祖アイドル”といえば、1969年の夏、松山商との延長18回、決勝再試合で知られる青森・三沢のエース、太田幸司だろう。

「再試合の末に準優勝に終わりましたが、端正な顔だちから女性人気が沸騰。ドラフト1位で入団した近鉄でも、ほとんど1軍での実績がなかった1年目から、3年連続してファン投票でオールスターに選出されるなど、まさに国民的人気を誇りました」(前同)

 電車での移動時には、同僚たちがガード役でつき添うなど、常に異例の厳戒態勢が敷かれたという。

 そんな太田のプロ入り翌年である71年、作新学院で初登板初勝利を挙げたのが江川卓だ。甲子園デビューは3年春と遅かったが、その頃には“怪物”の噂が全国に知れ渡っており、センバツ初戦には、その姿を見ようと大観衆が詰めかけた。

「地元の強豪・北陽(現・関大北陽)を相手に、19奪三振の快投を見せつけた。有力校による“江川包囲網”と、打率2割台の貧打線がネックとなって、春夏ともに優勝はなりませんでしたが、73年の甲子園は、まさに江川一色でした」(在阪スポーツ紙デスク)

 73年、江川にとって最後の夏。1年生の篠塚和典がいた銚子商と当たった2回戦は、ゼロ行進で延長12回へと突入。雨中の熱戦は、雨でボールが滑る不運もあり、押し出しサヨナラの劇的な幕切れを迎えた。

「それでも、3年夏までの公式戦で、2度の完全試合を含むノーヒットノーラン9度に、通算493奪三振、防御率0.47と、今も不滅の記録を打ち立てた。新旧含めて、本物の怪物は彼だけでしょう」(前同)

 社会現象ともなった、そんな江川の快投を、テレビを通して見ていたのが、のちに当人も“アイドル”として人気を博す愛甲猛だ。

「俺も高校の県大会ではノーヒットノーランを2度やったりしてるけど、江川さんには到底かなわないよ」

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