2022年10月1日に逝去した元プロレスラーのアントニオ猪木さん(享年79)。不世出の天才レスラーとして、日本マット界を牽引してきた猪木さんは、世間をあっと言わせる壮絶な戦いを幾度も勝ち抜いてきた。“燃える闘魂”が歩んだ死闘(デスマッチ)の軌跡!(文中=一部敬称略)
■格闘技世界一決定戦、大木金太郎戦とケンカマッチ
「猪木さんのキャリアで最も有名な一戦は、1976年6月26日に日本武道館で行われたモハメド・アリとの格闘技世界一決定戦です。アリ戦は、当時、“凡戦”との評価があった一方で、後年は再評価が進んでいます。なぜか? それは、この戦いが、真剣で斬り合うような“死と隣り合わせのものだった”からです」(専門誌記者)
命を削る戦いそれはアリ戦だけではない。
74年10月10日、蔵前国技館で行われた大木金太郎戦も、男の執念が生んだケンカマッチになった。
日本プロレスを創設した力道山の死後、ジャイアント馬場と猪木は同団体を離脱。大木は念願の日本プロレスのエースとなった。
しかし、坂口征二が猪木の設立した新日本プロレスに合流したことが引き金となり、日本プロレスは崩壊。大木も全日本プロレスに移籍したが、冷遇に耐えかねて退団していた。
「怒れる大木は、猪木に執拗に対戦を要求。宿泊先や自宅にも乗り込み、対戦を迫っていました」(前同)
新日本プロレスの営業本部長としてモハメド・アリ戦を仕掛けるなど、猪木の右腕として活躍した新間寿氏が明かす。
「大木さんの恋人から“会ってほしい”と言われたんです。渋谷にある二間のアパートに行くと、大木さんが “日本で試合がしたい”と言うので、“猪木とシングルでやりませんか?”と提案すると快諾してくれて。猪木さんに話すと“いいじゃないか。ただ、大木と因縁があった坂口(征二)には筋を通しておけよ”と言われたので、“一戦だけ”という条件で、坂口さんに許しをもらったんです」
遺恨対決となった一戦は、大木が一本足原爆頭突きを連発。額から一筋の血を流した猪木は、中腰の体勢で「もっと打ってこい!」と手招き、その気迫にひるんだ大木に、猪木はナックルパートを叩き込み、鬼気迫るバックドロップを放つ。猪木の勝利。試合後、2人は抱擁して涙を流した。
当時、デビュー4年目の若手レスラーだった“猪木の愛弟子”藤波辰爾は、このケンカマッチを間近で観ていた。
「この頃は、基本的に日本人のトップレスラー同士の対決は行われませんでした。ただ、猪木さんはストロング小林さんとの対決で、その常識を打ち破り、次に大木さんと戦ったんです。この試合の猪木さんの気迫はすごかった。外国人選手と戦うときとは異なる闘志が湧いたはず。僕も長州力と戦ったときに、猪木さんの気持ちが分かった気がします」