日本最古の物語『竹取物語』作者は“学問の神”菅原道真説の真相!の画像
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 日本最古の物語――それが作者不詳の『竹取物語』。

 紫式部の書いた『源氏物語』に「物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁」とあり、式部が『源氏物語』を書き始めた長保三年(1001)頃、すでに竹取の翁の話が物語の祖であるという認識が生まれていたようだ。

 江戸時代から成立時期の研究が進み、今では『源氏物語』より一五〇年ほど前の貞観年間(859~877年)から延喜年間(901~923年)までに、男性の知識人によって書かれたと考えられるようになった。

 まず文章が力強く女性的でないこと。また、物語は全国の伝承の他、漢籍や仏典といった当時の知識人にしか伝わらない話を参考に書かれていることだ。

 該当する時代から以上の資質に当てはまる作者を探すと、ぴったりの人物がいる。菅原道真だ。父祖三代続く学者の家に生まれ、一八歳で文章生(当時の大学生)になった人物。当時の文章生の合格年齢の平均が一九歳から二三歳だから、かなりの秀才だったことが分かる。

 その後、右大臣という異例の出世を遂げるに至るが、左大臣藤原時平の讒言によって延喜元年(901)、大宰府(福岡県)へ飛ばされ、二年後、失意のうちにその地で没した。

 本当に道真が『竹取物語』の作者なのだろうか。そうだとしたら、自らの作品であることをなぜ公表せず、作者不詳となってしまったのか、それらの問題を探ってみたい。

 まずは、物語のあらすじを確認しておこう。

 竹取の翁があるとき、竹の中から小さい女の子を見つけ、大切に育てていくうち、わずかの間に美しい女性に成長し、かぐや姫と名づけた。

 そんな姫の噂を聞きつけて、石作皇子、車持皇子、右大臣阿部御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂という五人の貴公子が求婚するが、いつか月に帰らなければならない姫は彼らに難題を課した。

 石作には「仏の御石の鉢」、車持には「蓬莱の玉の枝」、阿部には「火鼠の裘」、大伴には「竜の首の珠」、石上には「燕子安貝」を持ってくるように伝え、五人は姫の要求に応えようとするが、そのようなものがこの世に存在するはずがない。

 最後に帝までが姫を求めて勅使を遣わすが、彼女はそれにも応じず、やがて翁や嫗の嘆きをあとに、八月の十五夜、天人に迎えられて月の世界へ帰っていった。

 以上の話から道真に繋がるピースをいくつか探してきたい。

 第一に注目すべきが竹取の翁の名。

 物語には「讃岐造麻呂」として登場する。大和国広瀬郡に「散吉」(奈良県広陵町)という土地があり、そこを竹取の翁の地元として書かれた物語というのが通説だ。

 また、かぐや姫の名づけ親として登場する「斎部秋田」の斎部氏の本拠は広瀬郡から近い高市郡。

 しかし、翁の名の讃岐をストレートに、現在の香川県に当たる讃岐国と理解すると、一気に道真の姿が浮上する。仁和二年(866)に道真が讃岐守に任じられているからだ。

 一方、斎部氏は大和国高市郡を本拠としつつも、忌部氏と名を変えて全国に散らばり、讃岐国は地方へ下った忌部氏の拠点の一つでもあった。

 つまり、道真が讃岐守時代に知り合った忌部一族の翁の一人をモデルに、後年になって物語を書いた可能性が出てくるわけだ。

 しかも、その讃岐守時代に『香川叢書』所収の伝承によると、こんなことがあったという。

 道真が夜道を歩いていて叢林の中に光るものを見つけ、近づくと「神童」がいて、「われは熊野権現。なんじが来るのをずっと待っていた。われを得れば国家大安となろう」と言ったので、そこに祠を祀ったという。『竹取物語』の冒頭、竹取の翁は幹の光る竹を見つけ、近寄ると、光る筒に三寸ほどの小さな姫が入っていたとする。そのシーンとの共通性は見逃しがたい。

 さらに登場する五人の貴公子からも道真との関連が窺える。

 五人のうち、阿部、大伴、石上の三人は都が藤原京(奈良県橿原市)にあった時代の実在の人物の名を借りており、そのうちの大伴氏は道真にとって母の実家に当たる。

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