■鳥取で10年間の余生!?死亡偽装存命説もある
さて、又五郎が伊賀越えで江戸へ向かうと知った又右衛門ら四名は七日の朝、地の利のある伊賀で待ち伏せることとし、奈良街道と伊勢街道が交差する「鍵屋の辻」をその場所に決めた。
一方の又五郎も叔父の河合甚左衛門らに助太刀を願い、総勢一一名。結果、六時間といわれる激闘の末、数馬は仇討ちを成し遂げるが、又五郎方で討ち取られたのは四名のみ(数馬方も一名死亡)。又右衛門が斬ったと言えるのは二人だけで「三六人斬り」というのも講談による脚色だ。
話を戻すと、こうして仇討ちを遂げた又右衛門ら三名の身元はいったん、地元の藤堂家に預けられた。
しかし、池田家にとって彼らは前藩主の意趣を晴らした英雄たちだ。三年四ヶ月の歳月を経て池田家の要望が幕府に聞き届けられ、寛永一五年(1638)八月一三日、一六〇余名の藩士らに護送され、一行は鳥取に到着した。ところが、その一五日後、又右衛門が急死するのである。
彼が安藤家をはじめ旗本たちから命を狙われる恐れがあり、騒動を恐れた池田家に毒殺されたという噂の他、それとは逆に、安藤家らの魔の手から又右衛門を守るために死んだことにしたという存命説もある。
また、存命説の理由の一つとして、もともと又右衛門は大和郡山藩の剣術指南役であったため、上意討ちに功績のあった英雄の身柄をどこにも渡したくない池田家が郡山藩に虚偽の報告を行ったともいわれる。はたして真相はどうなのだろうか。
江戸時代後期に編纂された鳥取藩の編纂史料によると、慶安元年(1648)正月、藩から又右衛門の養子に知行二〇〇石と又右衛門の妻に五人扶持が給与されたという。その年に彼が死んだために養子への相続と未亡人への配偶者給付が行われたのだとすれば、存命説が証明できる。
理由はともあれ、もしその年まで又右衛門が鳥取で一〇年間の余生を過ごしたとしたら、何を思い、何をしていたのだろうか。史料は何も語らない。