日本近代化の先駆け「岩倉使節団」外遊最大の収穫は「勇気と自信」!の画像
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 明治維新を実現した新政府の首脳らが、こぞって二年近く国を空ける異例の外遊となった「岩倉使節団」。

 その目的は(1)新政府誕生の挨拶回り(2)幕末に結んだ不平等条約の改正(3)欧米の優れた制度などの調査研究だった。

 このうち(2)は失敗に終わったものの、使節団は各地で歓迎され、(1)の目的は達成している。

 さらに、政府首脳らが当時の先進国の制度を吸収しようと精力的に動き、日本近代化の先駆けとなる多くのものを持ち帰ったことから、(3)は大成功だったといえる。

 中でもパリとベルリンでの体験は近代国家日本の建設のための大きな糧となった。いったい彼らは何を見聞きし、何を持ち帰ったのだろう。

 使節団のメンバーは右大臣の岩倉具視を特命全権大使、参議・木戸孝允、内務卿・大久保利通、工部大輔・伊藤博文、外務大輔・山口尚芳を副使とした計四六名。

 この他、正使、副使の随伴者一八名に四三名の留学生(津田塾大学の創設者・津田梅子らの女性も含む)を加えて総勢一〇七名の規模だった。

 一行が横浜港を発ったのは明治四年(1871)一一月一二日。

 その年の暮れにサンフランシスコに上陸して大陸を横断。各国の滞在日数は、このアメリカ合衆国が最大の二〇五日に及んだ。日数が最大になった理由は不平等条約の改正問題にあった。

 明けて明治五年一月二一日にワシントンへ到着した一行は、二五日にグラント大統領へ国書を渡すが、そのあと、条約改正交渉に入ろうとした使節団は、アメリカの国務長官フィッシュから“想定外の事実”を突きつけられ、いきなり出端をくじかれてしまう。

 日本側が天皇の全権委任状を持っていなかったからだ。このためフィッシュ長官は「条約について協議はできても調印はできない」と主張した。

 大久保と伊藤が日本へいったんその委任状を取りに帰り、二人が再びワシントン入りしたのは四か月後。

 しかし、その後の交渉でも日本側の提案は拒否され、結局、条約改正は合意に達することなく決裂した。

 こうしてアメリカとの交渉がうまくいかなかった結果、他国との交渉も不発に終わることになる。

 条約改正交渉に失敗した使節団は七月三日、ボストンから大西洋を渡ってイギリスへ向かった。そこでの滞在はアメリカに次ぐ一二二日間。

 ロンドンでは国会議事堂から電信寮、造幣寮、小学校の他、大英博物館などを見て回り、リバプールでは造船所、マンチェスターでは紡績工場や製鉄所などを視察した。

 イギリスでの滞在が長くなったのは、産業革命を起こした国の実情をつぶさに見聞したかったからだ。

 次に一行が訪れたのがフランス。一一月一六日朝にロンドンを発ち、ドーバー海峡を渡り、その日の夕方、パリに着いた。

 滞在期間はイギリスに次ぐ七〇日間で、使節団は士官学校や地下水道、砲台、兵営、建築学校、国立銀行など、新政府の「富国強兵」政策につながる施設を中心に視察。

 また、意外なところではチョコレート工場の見学がある。なお、岩倉使節団が日本に初めてチョコレートをもたらしたとされる。

 しかし、その文明国フランスの首都で使節団は意外なものを目にする。

 彼らのパリでの宿舎は有名な凱旋門近くのホテルだった。その凱旋門に生々しい砲弾の痕が残り、修復工事が行われていたのだ。

 日本でも寛永寺(上野戦争)や御所(禁門の変)などに内乱の傷跡が多く残っているが、一行にとって文明国の首都でも内乱という負の遺産を抱えていることが意外、かつ驚きだったようだ。

 実はこの一年前、フランスで「パリコミューン」という内乱が起きていたのである。フランスがプロイセン(後述)との戦争に敗れ、労働者を主体とする国民軍が政府に対抗し、パリの各区から選出された代議員がコミューン(自治政府)を組織して七二日間、首都を支配。

「パリコミューン」と呼ばれ、彼らは“民衆ファースト”の政策を打ち出したものの、政府軍に敗れて崩壊した。

 視察団一行の見聞録『米欧回覧実記』では、その主体を「賊徒」などと称し、フランスが革命戦争を繰り返したことを知るに及んで、

「内訌(内乱)が沸ふ つ起き (沸き起こること)すること、仏国(フランス)の情態(状態)なり」と驚いている。

 ちなみに一行がフランス滞在中、日本で留守を預かる大隈重信らによって改暦が行われ、明治五年一二月三日が明治六年の元日となり、使節団はその日、新年祝賀のため、ベルサイユ宮殿を訪れている(以降の日付は新暦)。

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