教科書記載「日本史の常識」に異変「遣隋使はなかった説」の真相!の画像
写真はイメージです

 日出ずる処の天子、書を日没する所の天子に致す。

 これは推古天皇がこの国を治めていた六〇七年に、かの聖徳太子が当時の中国皇帝「隋」の煬帝に使節を派遣した際、日出ずる処の天子、すなわち日本の天皇が日没する所の天子、つまり中国の皇帝へ送った国書の一節だ。

 五世紀の「倭の五王」の時代には、日本の大王 (天皇)が中国皇帝(南朝の宋)の臣下に甘んじ、その威光によって国を治めようとした状況と比べると、それからたった一世紀半で中国に対等外交を望めるようになった証しとして高く評価されてきた。

 このとき使節として派遣された小おののいもこ野妹子の名とともに、この遣隋使派遣は歴史の教科書にも記載される日本史の常識である。

 ところが、日本側の代表的な史料である『日本書紀』(以下、『書紀』)に遣隋使を派遣したと掲載されていないのみならず、派遣した国は「唐」になっている。

 このため、「聖徳太子が派遣したのは遣唐使だった」という説がある。日本史の常識である

「聖徳太子の遣隋使」は本当になかったのだろうか。

 四世紀から六世紀の中国では、華北地方と江南地方でそれぞれ王朝の興亡を繰り返してきたが(南北朝時代)、晋し んの滅亡以来、五八一年に中国で久しぶりに統一王朝の隋が誕生。

 しかし、朝鮮の高句麗(現在の北朝鮮エリアにあった国)出兵などの失敗で短命に終わり、六一八年に唐が建国された。

 まず、「六〇七年の遣隋使はなかった」とする説の根拠は、『書紀』に使節の派遣先が「唐」だと記載されているという明快な理論だ。

 その前提となるのが、推古天皇の事績を示す『書紀』の記事の中に、実際の年代より一〇年以上さかのぼって記載されている例があったこと。

 一方、『書紀』が遣隋使を送ったとする推古天皇の治世(五九二年~六二八年)と隋の時代(五八二年~六一八年)には一〇年のズレがある。

 したがって、『書紀』編纂時に、唐の時代に派遣された使節を一〇年以上さかのぼって隋の時代のことだと、誤って記載した可能性がある。

 また、「日出ずる処の天子」で始まる有名な一節は『書紀』に記載されず、中国側の史料である『隋書倭国伝』(以下、『隋書』)に、倭(日本)の使節がもたらした国書として登場する。

 その使節の到来を『隋書』では隋の年号でいう大業三年としており、西暦で六〇七年に当たり、その年を『書紀』でいう推古天皇一五年のことだと理解すると、そこに「小野妹子を大唐に遣わす」と記載されていても、派遣年が共通しているところから推古天皇の摂政である聖徳太子による「遣隋使」のことだと解釈されてきた。

 しかし――。

(1)「小野妹子を大唐に遣わす」という一文をそのままの通りに解釈すると、聖徳太子が使節を派遣したのは唐であり、推古天皇一五年(607)のことではなかった。一〇年以上後の唐の時代の話だった。

(2)そうなると『隋書』の大業三年(607)に日本が隋に派遣した使節は、推古天皇と聖徳太子による使節でなかったことになる。つまり、「日出ずる処の天子」という国書を中国の皇帝に送ったのは両者とは別の人物だった。

 以上の仮説が成り立つのだ。

 それでは、この仮説が正しいとして、六〇七年の遣隋使は誰が派遣したのだろうか。手掛かりになるのは、倭の「多利思比狐」が隋の開皇二〇年(600)に派遣した使節のことが『隋書』に記載され、そこに倭国の風俗や風土として「阿蘇山あり」というくだりがあること。

 つまり、飛鳥(奈良県明日香村)にある推古天皇の王朝とは別に、九州にも王朝が存在し、その王が隋へ使節を派遣したというのが以上の説の結論だ。通説は『隋書』が記す「多利思比狐」を聖徳太子とするが、この説では当然、別人物となる。

 今のところ、明確にこの説を否定する証拠や解釈は現れていない。

 しかし、中国の皇帝に後ろ盾になってもらわないと国を治めることができなかった五世紀の「倭の五王」の時代と違い、王権が定まった七世紀初めの時点で九州に

「日出ずる処の天子」という国書を中国皇帝に送れる別王朝が存在したとは考えにくい。

 しかし、それなら、どうして『書紀』は「小野妹子を大、隋に遣わす」とストレートに記載しなかったのか。

 この問題を明らかにしなければ、推古天皇と聖徳太子が六〇七年に遣隋使を送った証明にはならない。

  1. 1
  2. 2