「肖像画の先駆者」藤原隆信の疑惑「伝源頼朝像」作者は別人説の真相の画像
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 日本美術史上、肖像画(「似絵」ともいう)の先駆者とされる藤原隆信。

 その名を聞いてピンとこなくても、京都の神護寺が所蔵する

「伝源頼朝像」(国宝)を描いた人といえば、かつて、それが中高の教科書の口絵などに登場したものだけに頷く読者もいるのではなかろうか。

「伝平重盛像」、「伝藤原光能像」(いずれも国宝)も隆信筆だとされ、『神護寺略記』という史料によると、それら「神護寺三像」は境内の仙洞院に掛けられていたという。

 ところが、嘉禄三年(1226)に神護寺の堂舎の名称を記載した確かな史料に仙洞院の名はなく、その後の築造と考えられる。

 一方、隆信が没したのは、その二〇年以上前の元久二年(1205)。

「神護寺三像」が仙洞院を飾るために描かれたのだとしたら、その築造年代から隆信が没したあととなり、彼の作といえなくなってくる。

 事実、現在ではこの三像の作者は隆信でないというのが通説。また、この三像を除くと、確実に彼が描いたといえる肖像画はわずかに二点のみだ。

 隆信の他にも同時代人で肖像画を描いていた画家がいたことを考えると、彼は本当に肖像画の先駆者といえるのかという疑問が湧く。その辺りの真相を探ってみよう。

 まず、隆信はどんな人なのだろうか。彼は康治元年(1142)、中流貴族の家に生まれた。

 しかし、母が権勢を極めた美福門院(鳥羽法皇の寵姫)に仕える女房だったことから出世は早く、美福門院が亡くなったあとは、その娘である八条院や後白河法皇(八条院の異母兄)に仕えた。

 父母が歌読みの上手であったことから彼も歌人として期待され、若くして歌合わせ(歌人を左右二組に分け、歌の優劣を決める遊び)などの催しに招かれるようになった。

 また、まだ幼い頃に母が再婚した相手が歌人として有名な藤原俊成。

 さらに隆信の母と俊成の間に生まれたのが定家だ。『新古今和歌集』や『小倉百人一首』の選者として知られる歌人である。

 このように隆信は歌人として恵まれた環境で育ち、肖像画家としてよりまず、歌の世界で世に出るのだ。

 一方、ここからは肖像画が登場する背景について触れておこう。もともと肖像画を描くことはタブーだったようだ。その人に似せて描くということは「ひとがた」などの呪符に使われかねないからだ。

 しかし、時とともに肖像画への抵抗感が薄まり、院政の時代にはなくなっていた。特に隆信が生きた平安時代末から鎌倉時代初めにかけては、芸術全般にそれまでの形式的な様式が飽きられ、写実的な作風が好まれるようになっていた。

 こうして後白河法皇の院政時代には、人物の特徴を写実的に表現した行事絵が絵巻物として描かれるようになった。行事には多くの人々が描かれている。それまでなら人それぞれの個性はどうでもよかったが、写実性が求められた院政時代には、そうもいかなくなってきたのだ。

 たとえば、仁安元年(1166)に六條天皇が大嘗会の禊のために賀茂川まで行幸して身を清める行事を行うと、その際の絵を藤原宗茂という画家が描いた。

 彼は朝廷の中務省内匠寮に置かれた画所に所属した宮廷絵師(画家)だ。こうして、まず肖像画は群衆像として描かれ始めるのだ。

 隆信の作品として確認できる二例とも群衆の肖像画だった。特に注目すべきは承安三年(1173)に落慶した最勝光院の障子絵として建春門院(後白河法皇の皇后)の行啓(皇太子や皇后が出かけること)の様子などを描いている作品。

 全体をまとめたのは常盤光長という宮廷絵師だが、平清盛政権の実務官僚だった吉田経房が後の関白九条兼実に「行啓に供奉した大臣以下の面(顔)だけは藤原隆信が担当した」と伝えている(『玉葉』)。

 わざわざ彼が顔だけ描くようになった理由も『玉葉』に説明があり、現代流に言うと「その道のプロだから」ということのようだ。

 肖像画で最も大事なのはいうまでもなく「顔」であり、当時、隆信は三〇代半ばだったが、世間では肖像のプロという認識があり、だからこそ宮廷絵師の中に割って入れたのだろう。

 のちに日本絵画史上、「この作品をもって肖像画の誕生とする」とされ、兼実がわざわざ障子絵鑑賞に出向いたほど、当時から話題になっていた作品だ。

 少しあとの時代の話になるが、隆信の子の信実が「似絵」好きな後堀川上皇のために、院の御所に仕える者らの顔をスケッチしていることが分かる(『古今著門集』)。

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