■家康を江戸に釘付けが高い評価につながった
家康が軍を率い、会津を目指して上方を発った隙に三成らが上杉勢と呼応する形で挙兵しているから、上杉に加担することは、義宣が三成方(西軍方)となったことを意味する。
慶長五年九月一五日に関ヶ原(岐阜県)で家康の東軍と三成の西軍が衝突する一ヶ月ほど前から武将間の書状で「景勝、佐竹一味たるべく候」と密約の存在が話題になっていた。
会津へ進軍中の家康が下野国(栃木県)まで行って三成らの挙兵を知り、Uターンして西へ軍勢を返すことになったものの、八月五日に江戸に戻ってしばらく動かなかったのは、上杉との密約説が囁かれる佐竹勢に背後を衝かれないためだったとみられる。
一方、義宣は重臣や父の反対があり、結局は上杉との密約を捨て、東軍方に与く みすることになったが、そうして佐竹勢の脅威がなくなって家康が九月五日に江戸を発つまで、ほぼ一ヶ月間、釘付けにした形だ。
ところが、西軍は関ヶ原で大敗し、三成らは処刑された。その二年後、今度は義宣にも沙汰が下り、秋田への転封を命じられ、石高は二〇万五八〇〇石へ減額された。なぜ義宣への沙汰が遅れたのだろうか。
まず最後の最後になって義宣は僅わずかながらも、上田城(長野県)を攻める徳川秀忠(後の二代将軍)の軍勢に兵を送り、形としては東軍方となったこと。
また、それまでは徳川方の史料(『正西聞見集』)に「佐竹義宣は(東軍・西軍の)どち方とも見えず、水戸に引き籠もりおられ候」とある通り、家康も密約の証拠をなかなか掴めず、二年かけてようやく見つけ出したとみられること――以上の理由が考えられる。『藩翰譜』で新井白石は「(義宣は)どうにかして三成の恩に報いようとした」と書いており、敗者を讃え、かつ、義を重んじる江戸時代人の気質からいって、「神君」として崇められている家康を江戸に釘付けにした義宣の功が高い評価を得たのではなかろうか。