江戸で「越後屋」創業から350年“三井中興の祖”三井高利の生涯の画像
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 令和五年(2023)は三井高利が江戸で越後屋(呉服店)を創業してから三五〇年の節目に当たり、多くのイベントが三井グループの周年記念事業として実施されている。

 高利は「現金掛け値なし店前(店頭)売り」という新商法によって、江戸で新参者だった越後屋を大店に育て上げたことで知られる。

 当時、呉服の商いはいわゆる御用聞き、もしくは屋敷売りのいずれかだった。御用聞きはあらかじめ訪問先で注文を取り、あとで反物などを届ける方式。屋敷売りは手代らが客の屋敷を訪ね、そこで現物の反物などを見せて販売する方法だ。いずれも訪問販売だった。

 客が呉服の良し悪しを見分けるのは難しく、店側が目利きでない客に安物を極上物と吹っ掛けることもできるわけだ。これを掛け値という。

 そこで客は店側の掛け値に従わず、「値切る」ことになる。一方、支払い方法は掛け売り(後払い)。客が支払期日になってもなかなか応じず、トラブルは絶えなかったという。

 そこで高利は掛け売りをやめて現金商法に切り替え、その代わり商品に正札(掛け値なしの正しい値という意味=定価)をつけた。

 さらに、店内に商品を陳列して客を呼ぶ店頭販売を主流に据えた。現金払いという負担はあるものの、目利きでない客でも越後屋に行けば安心できる正札で呉服を買うことができるようになったのだ。

 こうして、この店前売りの新商法が評判を博し、店に行ってショッピングを楽しみ、気に入った商品があれば現金で支払う現在の小売スタイルが確立していくのだ。

 ところが、この新商法は高利の独創ではなかったという。また、越後屋は創業後すぐに新商法で業績を伸ばした印象を抱かれがちだが、決してそうではない。しかも、江戸を代表する商人の一人とされる高利は越後屋開業後、伊勢国松坂や京に住み、ほとんど江戸にはいなかった。

 知られざる高利の生涯を振り返ってみよう。

 三井家の家伝では、祖先はかの摂政・藤原道長。そこから数えて六代目の信の ぶ生お が近江国の地方官となり、琵琶湖周辺を視察中、三つの井戸を見つけ、そこに財宝があったため、これを祝して三井に姓を改めたと伝わる。

 信生の子孫は武士となり、近江の守護・佐々木(六角)氏に仕えた。

 ところが、高利の祖父に当たる三井高安の時代に六角氏が織田信長に事実上、滅ぼされ、伊勢へと流浪し、高利の父・高俊の代に当時、すでに商人の町として発展しつつあった松坂で商いを始めた。

 特に伊勢国丹生(三重県多気町)の豪商の娘だった高俊の妻には商才があり、夫亡きあとも金融業と酒造販売で三井家は財を成してゆく。

 高利は、この母(出家名を殊法)と父・高俊の八人兄弟の末っ子として元和八年(1623)に生まれた。

 長兄の俊次はやがて江戸の本町四丁目に小間物屋(のちに呉服屋)を開き、高利は一四歳のときに彼の店で働き始めた。

 これが三井家の江戸進出の第一歩だが、この店は暖簾の紋所から「釘抜三井」といわれた。高利が創業した三井越後屋の店章は「丸に井桁三」。それと区別するため、長兄の店は「釘抜三井家」と呼ばれる。

 高利にはもともと商才があったようだ。事実上、彼が店を切り盛りしていたこともあり、その商才を長兄に警戒され、母の面倒を見るよう言い含められて松坂へ返された。このとき二八歳。

 しかし、すねることなく高利は母に孝養を尽くしつつ、松坂で家業を発展させた。

 そして虎視眈々と江戸進出の機会を窺い、長兄が亡くなると母の許しを得て延宝元年(1673)、宿願の江戸進出を遂げる。

 こうして江戸随一の呉服街である本町一丁目に「三井越後屋呉服店」(現三越)を開業。この延宝元年が現三井グループの創業年とされる。

 ちなみに越後屋の屋号は松坂の店から受け継いだもので、まだ三井家が武士だったとき、祖父・高安が越後守を称していたからだ。

 暖簾に掲げた「越後屋三井八郎右衛門」は高利の長男・高平の名。当時、五八歳になっていた高利は、息子たちが成長していたこともあり、江戸の店を次男に、京都の仕入店を長男に任せた。

 なお、この時代、江戸で呉服は作られておらず、京の西陣で商品を仕入れる必要があり、どの呉服商も京に仕入れ店を設けていた。

 高利は松坂にいながらも手紙で息子たちに細かな指示を与えていたことが分かっている。

 特に高利は現在でいう就業規則を定め、手代らに厳守させた。賭け事や遊郭遊びなどはもちろん、怪しげな買い物をすることまで禁じた。

 また、注目すべきは、傷んだ商品については安売り処分(現在でいう“訳あり商品”の特売)を実施していたこと。

 こうして開業の一年後にして売り上げは、先に江戸で成功していた「三井釘抜家」の店(長兄の店)のそれを上回った。

 こうして延宝四年(1676)には本町二丁目にも出店し、この頃、例の新商法を始めたようだ。この新商法は高利の叔母の嫁ぎ先で松坂の商家(屋号は伊豆蔵)で試みられていたもの。幼少期に彼が、それを巧みに学び取っていたといわれる。

 しかし、越後屋の繁栄は同業者からの妬みを買い、手代への嫌がらせなどの他、呉服屋間の取引ができなくなり、一時、孤立化した。

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