寺はもともと「別の名前」だった!?“奈良の大仏”東大寺の「秘密」の画像
写真はイメージです

 大仏といえば東大寺。中学の修学旅行でお決まりの訪問先といえば、これまた東大寺。国家鎮護の寺として日本史の教科書に登場し、日本で最も知られた寺の一つといえるが、そのルーツを探っていくと、もともと別の寺だったことが分かっている。

 それが、なぜ東大寺になったのか、つまり東大寺の誕生はいつなのか。

 また、その誕生秘話には聖武天皇と、その妻・光明皇后との夫婦の確執が隠されている――今回は、そんな知られざる「東大寺誕生」の謎に迫ってみたい。

■東大寺のルーツは?

『東大寺要録』(以下、『要録』)という、その歴史をまとめた平安時代の史料がある。そこに「古くは金鐘寺と号す」と書かれている。

 その寺は聖武天皇の発願で設立年は天平五年(733)、中心の堂舎は「羂索院」だが、この史料は東大寺僧がその繁栄を願って編纂したものだから、権威づけのために設立年を遡らせた疑いが持たれていた。

 ところが、若草山の西麓に位置する現東大寺法華堂の修理に伴い、使用された建築部材などの一部が木材の年輪測定によって、設立年とされる天平五年との誤差がごくわずかであることが分かった。つまり『要録』の内容は信じてよさそうなのだ。

 さらに、平安時代に編纂された『続しょく日本紀』(『日本書紀』に続く正史)の記述内容と合わせると、なぜ聖武天皇が金鐘寺を建立したのかも分かる。神亀五年(728)九月、わずか二歳の皇太子・基もとい親王が病のために亡くなり、その菩提を弔うため、高僧九人を選んで「山房」に住まわせたという。

 その「山房」こそが金鐘寺だとされる。ちなみに、金鐘は仏教説話に登場する「黄金の水瓶」を指し、「金鍾」の表記が正しいようで、『要録』が誤って記載しているため、ここからは正しいほうの「金鍾」とする。

 一方、聖武天皇はまだ基親王が亡くなる前、その病気回復を願い、多くの観音像を造らせ、その中の一体が縄状の法具である羂索を持つ観音像で、それが『要録』でいう「羂索院」に当たる現法華堂の本尊だという。

 さらに、法華堂の近くには修二会(お水取り)の行事で知られる二月堂があり、その本尊も観音(十一面観音)。やはり、聖武天皇が基親王の病気回復のために刻ませた観音像の一体を安置する堂だったとみられる。

 一方、現存していないものの、やはり法華堂の近くに千手堂(本尊は千手観音)という堂舎もあった。

 つまり聖武天皇が我が子の病気回復を願って造らせた観音像を、その皇子の死後、建立した寺に安置したことになり、東大寺のルーツは、法華堂などの堂舎が連なる若草山西せ い麓ろ くに誕生した一大観音霊場だったといえる。

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