異名は「下馬将軍!」江戸幕府大老酒井忠清に囁かれる悪人説の真相の画像
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 江戸幕府四代将軍徳川家綱の時代の大老酒井忠清は「悪人」というカテゴリーで語られることが多い。

 なぜなら「下馬将軍」と呼ばれて家綱以上の権勢を誇り、その主君が危篤に陥るや京から有栖川宮幸仁親王を傀儡の将軍として迎え、家綱死後も幕府を思うままに操ろうとしたとされるからだ。

 特に宮将軍の一件は、鎌倉幕府で執権として政治を担った北条一族の故知にならったものだとされ、実現していれば、江戸幕府を揺るがしかねない歴史的事件となるはずだった。

 忠清は本当に、そのような悪人だったのか。宮将軍招聘問題を中心に真偽を見定めていこう。

 忠清の酒井家は西三河を発祥の地とし、伝承では徳川家と同じ祖先に行き着く。忠清は徳川家康が駿府で今川家の人質になっていた時代から仕えた正親の玄孫。

 その正親は、同じく家康の人質時代から天下取りを支えた酒井忠次(徳川四天王の一人)と同族だが、忠次の家を左衛門尉家と呼び、家格は正親の雅楽頭家が上回る。

 つまり、忠清が寛永元年(1624)に生まれた際、すでに徳川家譜代名門の嫡男として将来が保証されていたのだ。

 寛永一四年(1637)、一四歳で父忠行から上野国厩橋(群馬県前橋市)一〇万石を継承。慶安四年(1651)年に四代将軍家綱が誕生すると、その二年後、わずか三〇歳で老中となった。

 当時、老中首座(現在でいう首相格)には左衛門尉家の酒井忠勝が就いていたが、その幕政の中心人物と同列という扱いでの入閣だった。しかも、席次は忠勝より上席。すべては家格によるものだった。寛文六年(1666)には大老に昇格し、家綱の治世に彼が権勢を振るったのは事実だ。

 それではまず、「下馬将軍」という評から分析していこう。由来は、忠清の邸が江戸城大手門前の下馬札近くにあったため。下馬札は、馬に乗って来た者へ下馬するよう指示した高札のこと。その権勢を下馬札や将軍という呼称で表現したものだ。

 ネタ元の史料である『武門諸説拾遺』によると、当時、すでに一線を退いていた元老中の阿部忠秋が忠清ら後輩老中らの好き勝手ぶりを聞き、彼らを自邸へ招いてこう苦言した。

「近年、貴殿(忠清)の奢りが著しくその振る舞いによって世間は下馬将軍と呼んでいるそうだ。これではまるで将軍が二人いるようなもので、上様を軽んじ、将軍家の御威光を損ねることになる。これこそが不忠の極みだと思われんか」

 しかし、『武門諸説拾遺』は江戸中期以降に成立したとされ、忠清の生きた時代の史料ではない。逆に同時代には、「下馬将軍」どころか、忠清の奢りを示す史料は確認できない。

 したがって、本当に忠清の時代に彼を「下馬将軍」と呼んでいたか定かでなく、むしろ後世になって面白おかしく、そう渾名したと考えられる。

 とはいえ、後世の人が忠清をそう呼ぶにはワケがあるはず。そこで次に宮将軍招聘問題を探っていこう。

 病弱だった将軍家綱に跡継ぎはおらず、延宝八年(1680)五月、家綱の病状が悪化した際、有力な次の将軍候補は二人いた。

 まず一人目は家綱の弟綱重の嫡男綱豊(のちの六代将軍家宣)。二人目は綱重の弟綱吉(五代将軍)だ。筋目からいうと、家綱のすぐ下の弟の綱重が最有力だが、すでに他界しており、次いで筋目としてはその子の綱豊が相応しい。ところが、綱豊はまだ若く、五代将軍は綱吉で決まりかけた。

 ところが、忠清は器量面で綱吉の将軍継承には反対だった。そこで徳川家と系図上つながりのある皇族の有栖川宮家から宮将軍を暫定的に五代将軍に据えようとした。つまり、“綱吉潰し”のために忠清は一代限りの将軍として宮将軍を京から迎え入れようとした――これが通説だ。

 事実、当時の史料(『御年代記』)も、綱吉の器量に忠清が疑問を抱いていたという話が掲載されている。近年は“犬公方”と揶揄された綱吉の政治が再評価されているものの、生類憐みの令によって当時の人々の反感を買ったのは間違いない。

 忠清による宮将軍招聘は、江戸幕府の正式歴史書『徳川実紀』に記載されており、そういう話があったのは事実だ。しかし、忠清が鎌倉幕府の北条一族にならい、宮将軍という傀儡を立て、家綱の死後まで幕府の政治を牛耳ろうとしたわけではない。そのことを確認していこう。

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