『魔王』と恐れられ、秀吉も家康もビビりまくったあの織田信長だが、じつはマザコン男だったということが、心理学的にもみてとれる。

弟に向けられた母の愛情

織田信長の母・土田御前の愛情は、賢そうで品行方正な弟の信行にばかりに向けられた。なにしろ、信長の方は奇抜な装束で遊び歩く、今でいうところの非行少年。対する弟の信行は、品行方正を絵に描いたような少年で、親の言いつけに背いたこともないと言い伝えられている。

しかし、この兄弟がこのように育ったのには、はっきりとした理由がある。信長の少年時代、父の織田信秀はまだまだ尾張では戦国大名としての地位を築けてはいなかった。尾張下四郡に勢力を伸ばしていたが、立場としては織田本家の重臣でしかなかった。それが信長が成長する時期に独立大名への道をたどり、天文17年(1548)には末森城を築いて本拠とした。信長、15歳の時である。

この時、信秀は従来の居城である那古野城(現在の名古屋城)には信長を置き、末森城には弟の信行を移り住ませた。自身も正室である土田御前とともに末森城に移り、信長は15歳になっているとはいえ一人で那古野城に残されたことになる。

この時期から父の信秀は信長の実力を認め、嫡子として信秀の跡継ぎとなることを公言していた。このような場合、通常は信長を居城である末森城に起き、信行を那古野城に置くのが通例。しかしそうはならなかったのは、正室の土田御前の意向が大きかった。

信長は、生まれてすぐ乳母に預けられた。当時、大名の嫡男は赤ん坊の時に実母から離され、乳母によって育てられるのが普通だった。しかしそれは、あくまでも乳離れするまでの時期だった。通常は乳離れすると乳母の手から離れ、母によって育てられる。しかし、土田御前の場合、信長を乳母にまかせたまま自身が育てようとはしなかった。

それはなぜか。伝えられるのは、信長は乳を飲んでいる時期から癇癪もちで、乳母の乳の出が悪い時など、その乳首を強く噛んで出血させるなどの、激しい行動が目立った。

いわば、可愛げのない赤ん坊で、そんな信長の行動を見せつけられては、土田御前も目を背けたくなる。結果として、弟の信行ばかりに愛情を注ぐことになった。

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