鉄壁の守りを誇る大坂城に官兵衛が犯した守りの弱点

天正11年(1583)、信長の後を継いだ秀吉は、石山本願寺跡に大坂城の築城工事を開始した。信長の後継者を自認した秀吉は、信長の安土城をモデルに大坂城を造ったともいわれている。

だが、秀吉は安土城と同じ規模の城を造る気はなかった。秀吉はこのとき、安土城を超える究極進化系ともいえる城造りをめざしていたのだ。

秀吉の造りあげた大坂城は、本城以外に城下町も堀や土塁で囲んだ「総構え」を持ち、天守は、『大坂夏の陣屏風』に描かれた絵図によると、5重6階の巨大なものだった。

そこへ黄金をふんだんに用いた瓦が乗せられた。また、御殿内部も秀吉好みの金の装飾にあふれた豪華なものだったと伝わっている。この、天守の建つ本丸の築造だけで約1年半を費やし、その後、15年かけて難攻不落の巨城に造り上げている。

この、大坂城の縄張りを担当したのが、大河ドラマ『軍師官兵衛』の主役、黒田官兵衛なのだ。

官兵衛は、石山本願寺跡の台地を造成し、堅牢な石垣を築いた。本丸は、上の段、中の段、下の段の三段重ねで、中の段と下の段には通路状の袖曲輪を設けて、守兵を配置できるようにして本丸の防御を強固にした。

また、その本丸を内堀と外堀で囲み、さらに天然の河川と運河によって囲む念の入れようで、鉄壁の防御態勢を敷いている。この大坂城の築城の様子を見学した、豊後の大名・大友宗麟は、この城を「三国無双の城」と讃えたという。

だが約30年後、大坂の陣で西軍に味方した真田幸村は、城の南側の守りの弱さを指摘。その防御を固めるため「真田丸」と呼ばれる出城を築いた。大坂冬の陣では、この真田丸のおかげで西軍は東軍の攻撃をしのいでいる。

しかしなぜ、官兵衛ほどの築城名人が、この欠点に気付かなかったのだろう。大坂城の縄張りは年月をかけて造られたものなので、官兵衛に責任はないかもしれないが、官兵衛の頭の中に、大坂城の完成予想図はできていなかったのだろうか?

大坂城以後、官兵衛が築いた城に豊前・中津城がある。この中津城の城下町は官兵衛の後、細川の時代のものだと思われていた。しかし近年の調査で、官兵衛の時代に基本的な町割りがなされていたことが分かってきた。中津城では官兵衛の頭のなかには未来の縄張りまで描かれていたのだ。

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