何かあったら連絡してこいよ

1971年、日本プロレスに激震が走る。団体内の不透明な経理をただそうとした馬場や猪木ら選手会の動きに端を発し、結果として猪木が追放される。翌72年、猪木は新日本プロレスを旗揚げし、藤波さんも同団体に参加する。

「もともと馬場さんと猪木さんは仲が良かったんです。ところが、猪木さんの、馬場さんへのライバル心というかね……。気づくと、猪木さんは馬場さんと風呂に一緒に入ることも避けるようになっていた。当然タッグを組む機会も激減し、控室も宿舎も別々になっていきました。BI砲最後の防衛戦となった札幌中島体育センターの頃(ファンクス相手にインタータッグ王座の防衛に失敗。71年12月7日)は、仲はもう最悪でした。タッグを組んでいるのに同じコーナーのポストを挟み、リング下は猪木陣営と馬場陣営で別れていた。こっちは僕や山本小鉄さんら数人なのに対し、向こうは10人近くいたんじゃないかな。馬場さん陣営は、猪木さんが試合中に何か仕掛けるんじゃないかと思って、対戦相手のドリーやテリーより警戒していました。猪木さんが追放されて新日本を旗揚げすることになり、僕も加わりました。当時は、付け人ならばそうするのが当然でしたから……。
ただ、新日本と全日本と団体は違っても、年末のプロレス大賞などでご一緒させていただく際には、必ず先輩の馬場さんにご挨拶させていただきました。実は新日本時代に一度だけ、馬場さんに会いに行ったことがあります。第二次UWFができて新日本の選手が大量離脱し、僕の中でもモヤモヤした部分が日に日に強くなっていた頃です。"違う風景"も見てみたいと思って、全日本の東京体育館大会に行ったんです(90年5月14日)。会場に着くと、永源(遙)さんが"よく来たな"と、馬場さんの所まで案内してくれました。何か具体的に話したわけではないんですが、最後に馬場さんが"何かあったら連絡してこいよ"と言ってくれたんです。あの言葉は本当にうれしかったなあ。馬場さんの立場上、"全日本に来るか?"とは言えませんが、それを含めて"何かあったら連絡しろ"だったと、僕は理解しています」

馬場と藤波をつなぐキーワードがある。マディソン・スクエア・ガーデン世界中のレスラーが憧れるこの舞台で64年、馬場はブルーノ・サンマルチノとWWWFヘビー級のベルトを懸けて闘った。藤波もまた、78年に同地でWWWFジュニアヘビー級のベルトを獲得している。

「僕が初めてマディソンの花道を歩いたとき、ファンの熱気で押し戻されるような感覚に捉われました。海外のさまざまな場所で試合をしましたが、あんな気持ちになったのはマディソンだけでしたね。それだけ特別な場所だったんです。馬場さんはマディソンでファイナル(メイン)のリングに上がっています。実力と圧倒的な個性がなければ、あそこでメインは取れません。馬場さんは、世界で認められたレスラーだったわけです」

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