日本刀と言われた"スパルタ教育"!

尾藤は1942年10月23日、和歌山県有田(ありだ)市で生まれた。彼が選手育成術に長けていたのは、父親の忠雄が教師だったことと無関係ではない。忠雄は和歌山県立師範学校(現・和歌山大)卒業後、有田郡と有田市の小学校、中学校の教諭を歴任した。
忠雄には持論があった。
「生徒には2つのタイプがある。一つは褒めて伸びるタイプ。もう一つは叱って成長するタイプだ」

尾藤は箕島小、箕島中を経て、1958年に箕島高に入学。4番・捕手として活躍するが、甲子園出場はかなわなかった。
近畿大学に進み、野球を続けたが、ハードトレーニングが仇になり、腰を痛めた。野球ができないのなら、大学にいる意味はないと、2年で中退。親戚が会長を務める和歌山相互銀行に入行した。

モーターバイクでお得意さん回りをし、空が夕日で真っ赤に染まると、知らず知らずのうちに母校の箕島高グラウンドに向かった。ノックを手伝ううちに、OB会から担ぎ上げられ、1966年秋に監督に就任することになった。
当初はスパルタ教育で、選手からは「日本刀」と恐れられた。ノックをするときの目が殺気立っていたからに他ならない。

だが、あることがきっかけで、スパルタ教育の看板を下ろす。
「ある日、上級生が下級生のお尻をバットで殴る"ケツバット"を目撃したんです。ノックをした際に外した腕時計を忘れ、グラウンドに取って返したときでした。私は上級生の胸ぐらをこぶし掴み、拳の目標を定め、生徒の怯えた顔を見た瞬間、ハッと我に返りました。このハッとした瞬間が、何かの啓示だったのかもしれません。拳を生徒の顔に見舞っていたら、後の私はありませんでした」

興奮して「怒る」ことと冷静に「叱る」ことの違いを知るのは、後年のことである。"ケツバット"の被害者である下級生が上級生になった1968年春、尾藤は初めて甲子園出場の切符を手にする。原動力は、エースの東尾修(後に西武)であった。
「当時の東尾は、球は速いが、いわゆるノーコン。東尾らしかったのは、前年秋の近畿大会準決勝の興国(大阪)戦。試合開始のサイレンが鳴った直後、またサイレンが鳴りました。相手の1番打者への初球、頭にぶつけ、救急車が駆けつけたんです」

尾藤は投球も性格も真っすぐな東尾を愛し、"褒め育て"たのであった。
初めて甲子園の土を踏んだ尾藤箕島は、破竹の勢いで勝ち上がる。1回戦は苫小牧東を5対2、2回戦は高知商を2対1、準々決勝は広陵を7対3と撃破。準決勝の大宮工戦を迎える。

尾藤が唇を噛む。
「それまで無欲だったチームが突然変わるんです。マスコミが宿舎に殺到し、"ベスト4に残ったチームの中では、一番強い。優勝候補筆頭ではないでしょうか"と、おだてられ、その気になってしまったんです。私が無用なバントをしたことで自滅し、3対5で負けました」

東尾は、こう語っている。
「9回裏二死一、二塁の場面で打席に入り、本塁打を打てばサヨナラだと思い、一発を狙ったんですが、カーブを引っかけショートゴロになってしまいました」

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