水森かおり「なかなかグラビアのオファーが来なくて(笑)」ズバリ本音で美女トークの画像
水森かおり「なかなかグラビアのオファーが来なくて(笑)」ズバリ本音で美女トークの画像

 今回は、“ご当地ソングの女王”として、数々のヒット曲を世に放ち、『NHK紅白歌合戦』に13年連続で出演するなど、大活躍の演歌歌手・水森かおりさんが登場。昨年、歌手生活20周年の節目を迎えた彼女が、下積み時代から現在までを、たっぷり語ってくれた!

――昨年の歌手デビュー20周年、おめでとうございます。その記念すべき1年を振り返って、率直な気持ちをお願いします。

水森:最高の20周年イヤーだったと思います。毎日忙しく過ごさせていただき、たくさんの方と触れ合う時間をいただきました。デビュー当時は、20年も歌手を続けられるとは思ってもいなかったので、本当に感謝の1年でした。

――このコーナーには約4年ぶりの登場となります。

水森:もちろん、覚えていますよ。いつ、グラビアの話が来るのかなと。ずっと待っているのに、なかなかオファーが来なくて(笑)。

――そうでした。前回は『週刊大衆』でのグラビアデビューも、目標の一つに掲げてくださいましたからね。大変失礼いたしました。

水森:アハハハ。お願いしますね。

――今や“ご当地ソングの女王”として知られる水森さんですが、オーディションをキッカケにスカウトされた後も、下積み時代は所属事務所のスタッフとして働いていたとか?

水森:そうですね。電話番をしたり、掃除をしたり、お客様にお茶出したり……。レッスンがあるときは早退していましたが、月曜から金曜まで、そういう日々を2年間くらい続けました。

――その後、95年に『おしろい花』でデビューしますが、転機となった曲といえば、やはり紅白初出場を決めた『鳥取砂丘』ですか?

水森:もちろん『鳥取砂丘』も思い入れの深い曲ですが、“転機”となると、その前年の『東尋坊』ですね。初めて“紅白”という舞台を自分の中で明確な目標にできたというか、出場者リストに自分の名前が載っていなくて悔しいと思ったんです。それまでは意識したこともなかったんですけど。

――『東尋坊』のヒットがあって、翌年の紅白初出場につながったと?

水森:そうですね。この曲の舞台である東尋坊は、目の前に日本海が広がる崖の名所なんですが、当時の私も歌手として“崖っぷち”だったので、本当にその時の気持ちが曲にリンクしていました。作曲家の弦哲也先生が「『東尋坊』も崖っぷち、かおりちゃんも崖っぷちなんだから、頑張ろう」とおっしゃられて……。「私、今のままじゃダメなんだ!」と、ハッとさせられました。あの曲に出合ったことで、ファンの方や家族、そしてスタッフの皆さんのためにも、一つ先のステージに立ちたいという目標ができたんです。

――それだけ、手応えも感じたということですか?

水森:発売当時から、周囲の反応が目に見えて違っていましたね。それまでは、キャンペーンで商店街のレコード屋さんの店頭とかで歌わせていただいても、なかなか振り向いてもらえなかったんです。

――今では想像しがたい光景ですね。

水森:一瞬見てくださる方もいましたが、“なんか歌っているな”という感じで素通りされちゃう。だけど、『東尋坊』のときは、曲に吸い寄せられるように皆さんが集まってくださったんです。自分でも“今までとは全然違う”と思いました。

――なるほど。曲に引きつけられたわけですね。その周囲の変化を経て、翌年に紅白初出場を果たすわけですが、出場が決まった瞬間って、どんな感覚でした?

水森:本当にうれしかったですよ。今でもハッキリと覚えています。名古屋の松坂屋でマネージャーとお仕事で使う備品の買い物をしていたとき、マネージャーの携帯電話に連絡が来て。思わず、フロアー中に響く声で「やったー!」って(笑)

――名古屋のデパートで歓喜の絶叫をしたわけですね。

水森:名古屋では、その後も何回か紅白の連絡をいただいたり、初の座長公演をやらせてもらったりして。私にとっての“パワースポット”かもしれませんね。

――その後、13年連続で紅白に出場し、最近では巨大衣装も注目を浴びています。昨年は、天女のような衣装に身を包み、火の鳥の上で『大和路の恋』を熱唱する姿が話題となりましたが、高い所は怖くないですか?

水森:高い所、大好きなんです。毎回、もっと上がればいいのにと思っています(笑)。観客席の真上で聞く歓声は、たまりませんよ。すごくゾクゾクしますし、気持ちいいです。

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