「関東戦国史」の最大のハイライト!「上杉謙信VS北条氏康」ライバル対決の画像
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 関東における戦国時代は享徳の乱で始まったとされ、上杉氏と北条氏による覇権争いでハイライトを迎える。

 この地方の勢力図は戦国時代の前期、山内上杉氏と扇谷上杉氏が長享の乱で対立して弱体化した隙に、伊豆国韮山城(静岡県伊豆の国市)を居城とする伊勢宗瑞(北条早雲)が進出したことから一変。

 早雲が乱に乗じて小田原城を奪い取って相模国で地歩を固めると、嫡男である氏綱が勢力を拡大し、孫の氏康の代になって関東全域に覇を唱えたことから、上杉氏の本拠地だった上野国もその攻勢に晒されるようになった。

 こうした中、山内上杉家一五代当主である上杉憲政は天文二一年(1552)、本拠の平井城(群馬県藤岡市)を追われて白井城(同県渋川市)に入ったものの、巻き返しを図ることはできず、同年中に長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後に亡命。

 景虎が後に憲政から上杉家の家督と関東管領職を譲られ、北条氏康と渡り合うことになった。

 その氏康は小田原北条氏の最盛期を築いたことで知られる一方、税制改革を実施して民政面でも敏腕を振るった武将として知られ、年齢は謙信よりも一五歳上。彼は永禄二年(1559)、関東で発生した飢饉の影響から人心の一新を図るため、家督を嫡男の氏政に譲ったあとも「御本城様」と呼ばれて隠然たる影響力を持ち、隠居の翌年、関東に侵攻してきた謙信と激突した。

 永禄三年(1560)八月二五日、謙信が居城の春日山城(新潟県上越市)を発ち、翌二九日に上野国に入って沼田城などを立て続けに攻め落とすと、それまで氏康に従っていた国衆がこぞって寝返った。

 彼らにすれば、謙信が関東管領の憲政を奉じていたことから、旧主が越後の強兵を引き連れて領地を奪回しにきたと映ったのだろう。

 謙信の元には上野や下野どころか、武蔵、常陸、下総、上総、安房の国衆も参陣。

 一方の氏康は武蔵国の川越城から松山城(埼玉県比企郡吉見町)まで進軍したものの、相手方の陣容はまさに“オール関東”で、各地の城を落とされて本城に籠城するしかなかった。

 とはいえ、小田原城といえば、総延長九キロにも達する総構えを有する国内最大規模の城。大軍を擁す謙信も包囲こそしたものの、簡単に攻め落とすことはできない。

 しかも、氏康はこの間、甲斐の武田、駿河の今川と甲相駿三国軍事同盟を締結。当時、桶狭間(愛知県名古屋市、豊明市)で今川義元が討ち死にしたため、その援軍はわずかだったものの、一方の武田信玄は自ら兵を率いて相模に進軍する勢いを見せ、謙信はこの動きを警戒した。

 というのも、謙信はそれよりも以前に三度、北信濃の川中島(長野市)で信玄と戦い、いつ背後を突かれるかもしれなかったためで、両者は翌年に実際、同じ舞台で有名な第四次合戦を展開。戦国史上、最大の激戦となった。

 一方、謙信の小田原城包囲は実際、一〇日ほどだったようで、彼は越後に帰る途中、鎌倉の鶴岡八幡宮に立ち寄り、前述のように憲政から上杉家の家督と関東管領職を正式に譲り受けている。

 すると、これを機に、それまでとは逆の現象が起きる。

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