今から約半世紀前に完成した東京都板橋区にある「高島平団地」は、日本住宅公団(現・都市再生機構)が手掛けた中では最大の規模を誇る。
団地が建つ一帯はかつて、「徳丸ヶ原」と呼ばれ、西洋砲術の祖と言われた高島秋帆が天保一二年(1841)にここで、日本で初めて西洋式の調練を実施したことから地名が高島平に改められた。
その秋帆は現在、NHKで放送されている大河ドラマ『青天を衝け』に、主人公の渋沢栄一に大きな影響を与えた人物としても登場。俳優の玉木宏が演じる秋帆は作中、渋沢(吉沢亮)が住む血洗島(埼玉県深谷市)を治める岡部藩の牢屋に入れられ、若き日の彼に釈放後、「私はこの先、残された時をすべてこの日の本のために尽くし、励みたいと思っている。おまえも励め。必ず励め。頼んだぞ」と伝える。
むろん、ドラマ上の演出だろうが、秋帆が岡部藩の御預けとなり、入牢を申しつけられたことは事実。西洋砲術の祖と言われ、大規模調練まで実施した人物がなぜ、罪人になったのか。
高島家は長崎の町年寄で、町人身分だったが、苗字帯刀は許されて「奉行-代官-町年寄」という行政組織を担い、秋帆が七歳のときに父の四郎兵衛が当時、来航中だったロシア使節であるレザノフの一行に糧食や船舶修理の材料を提供する役目に就いた。
秋帆は西洋文化に自然と興味を抱き、こうした中、やがて異国船の来航が相次いだことから幕府が警戒を強めて台場(砲台)の増設を開始。
四郎兵衛は出島の台場を受け持ち、その職務のために日本式の砲術を学んで皆伝師範の腕前となり、さらにここでオランダ人から西洋式のそれも学ぶようになった。
当然、秋帆も父から和洋の砲術を伝授され、やはり出島にいたオランダ人から積極的に学習。
実際、三三歳のときに「火管に点火後、破裂弾や榴弾の火薬に引火しない方法は?」などと質問した記録がオランダの文書館に保管されている。
また、自ら蘭書を輸入して知識を蓄えた一方、歩兵銃やモルチール砲など西洋の武器を実際に購入し、それらを参考に大砲や砲弾を作り、三八歳だった天保六年(1835)に高島流砲術を完成させたとみられている。
むろん、当時は事実上、鎖国中。ただ、将軍や長崎奉行、代官、町役人には脇荷という私貿易が認められ、高島家もこれで潤い、輸入品を転売し、その稼ぎで武器類を買っていた。
こうした中、秋帆が四三歳のとき、一大転機が訪れた。
天保一一年(1840)、長崎奉行に入港中のオランダ船から、この前年に勃発したアヘン戦争に関する情報が『阿蘭陀風説書』としてもたらされた。秋帆はこのとき、イギリス海軍が圧倒的な火力で清国の沿岸を蹂躙したことに危機感を抱き、長崎奉行に「天保上書」を提出。
幕閣はその内容に刺激を受け、日本が軍制改革に乗り出す契機となり、その結果、秋帆は大規模な砲術の調練を命じられた。
そして、前述の天保一二年五月九日、秋帆の門人一〇〇名が参加し、のちの高島平でモルチール砲の他、各砲、馬上筒、ゲベール銃、野戦筒などの操練が行われたのだ。
なお、のちに著名な砲術家となる伊豆韮山代官の江川英龍が秋帆に砲術を学んだのは、この操練のあと。
秋帆は操練を実施するに当たり、諸組与力格という身分を与えられ、高島流砲術がついに天下に盛行。
だが、彼はこの翌年に突如、西洋の銃砲を買い入れて謀叛を企てたとする容疑で逮捕され、長崎で投獄されてしまう。
秋帆を検挙した新任の長崎奉行だった伊沢政義は当時、縁戚関係だった江戸町奉行の鳥居耀蔵に手紙を送り、この五年前に大坂で大塩平八郎が引き起こした乱を引き合いに出し、「大塩平八郎などより人数が多く、大砲二〇挺を擁し、高台の別宅に砲台を据え、叛意は明らか」と書いた。