江戸経済を支えた航路開発責任者・河村瑞賢の一発逆転大儲け人生!の画像
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 巨大都市・江戸。当時、庶民の腹を満たす米は東北地方から、さまざまなルートを駆使して輸送された。これを「廻米」といい、豪商の河村瑞賢が新たな航路として確立した西廻り航路は、やがて蝦夷地(北海道)にまで伸び、日本の物流の大動脈となった。

 瑞賢は伊勢の貧農から身を起こし、淀川の改修という治水にも大きく貢献。彼ははたして、どのようにしてインフラ整備の功労者となったのか――。

 瑞賢は大坂夏の陣で豊臣家が滅んだ三年後、元和四年(1618)二月に伊勢国渡会郡東宮村(三重県度会郡南伊勢町)で生まれた。

 祖父は武将の蒲生氏郷に仕え、その後に帰農したとされ、瑞賢が生まれた頃は貧しく、彼は一三歳のとき、親戚を頼って江戸に出た。

 京都町奉行与力が書いた随筆『翁草』によると、まず親戚の縁を辿って車しゃ力り き(荷物の運搬業)となり、以降の様子が『評伝河村瑞賢』に書かれている。

 瑞賢はやがて妻を迎え、子どもにも恵まれて家族を養うようになったものの、なかなか芽が出ず、三○代の頃には江戸を離れることを決意した。

 東海道の小田原宿に来た際、一人の老僧(老翁とも)から「六〇余州の富と人を集めた江戸を捨てるのは心得違い。そもそも江戸で成功しない者が不案内な京大坂で成功するはずがない。御身の人相を見るに、後年大いに立身する相が出ておる。江戸へ帰ってもう一度頑張ってみよ」と諭されてUターン。

 品川に戻って浜辺を歩いていると、ちょうど七月のお盆明けだったことから精霊棚の茄子や瓜がおびただしく漂着していた。

 精霊棚は先祖を迎えるため、位牌を中心に安置し、さまざまなお供えをするもの。彼はこのとき、海に捨てられた野菜を拾い集め、たらいと桶を用意して漬物にして販売。当時は江戸中で槌音が響き、大工や左官職人らが現場で握り飯を食べていた。当然、彼らにとって漬物はおかずに最適。瑞賢が拾った野菜はすぐになくなり、彼は職人という得意先を得たことで蓄財に成功。

 江戸中の普請場で職人に漬物を売って回るうちに、彼の才覚が居合わせた普請奉行ら役人の目にとまり、その一人からあるとき、日雇いの頭として誘いを受けた。当時、日雇い労働者は烏合の衆で、幕府もその管理に頭を悩ませていたからだ。

 瑞賢はやがて普請場で彼らを差配するようになると、材木の重要性に気づき、その商いを始め、江戸の中ノ橋か愛宕下辺りに店を構えた。

 すると、そうこうするうちに明暦の大火(1657年)が発生し、江戸市中がまさに丸焼けとなったことから材木の需要が一気に高まり、瑞賢は大儲け。

 彼は当時、全財産を持って木曽に急行し、材木商を訪ねると、門内で家の子が遊んでいたため、小判に穴を開けて紙よりを通し、玩具として与えた。当然、材木商は小判を玩具にした瑞賢を富豪と思い込み、商談はたちまち成立。

 とはいえ、『評伝河村瑞賢』に掲載された以上のエピソードは小田原の老僧の話といい、とんとん拍子に財を築いたサクセスストーリーといい、どうも嘘っぽい。だが、瑞賢の前半生については前述の『翁草』を除けば、ほぼ史料がない。

 一方で、『評伝河村瑞賢』を記した春秋居士は、現代では散逸してしまった史料などを基にし、すべてを信じることはできないものの、瑞賢が才智に溢れていたことは確かだろう。

 また、彼は『翁草』によると、人に取り入ることがうまく、その噂が次第に幕閣にも届いたようだ。

 明暦の大火は彼を豪商に押し上げただけでなく、後世に名を残す事業をなさしめる。それが航路の開拓だ。

 大火のあと、再建された江戸の町は人口が増え、米が不足。米所の東北から、いかに効率的に廻米するのかが重要な課題となり、幕府はおそらく、瑞賢に労働者の差配だけでなく、土木建築事業そのものを委託するようになっていたのだろう。

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