関西に生息するアヤシくてオモロい人たちに、大阪出身・京都在住の人気ライター・吉村智樹が直撃インタビュー!
■多彩なパーソナリティが自慢!超異色なラジオ局の誕生秘話
淀川区の住宅街に建つ一軒の緑色の民家。この家の2階に、開局3年目を迎えるラジオ放送局「エフエムひめ」がある。
「スタジオは手作りです。お金がなかったので、マイクやミキサーなどの機材も、すべてもらいものからスタートしました」
こう語るのは、「エフエムひめ」局長、本庄強さん(49)。放送局とはいえ、手製のスタジオ以外は家宅そのもの。土足は厳禁。畳敷きの居間に出演者たちが続々と集まり、自分の番組が始まる時間になると、めいめいスタジオへ入っていく。とてもアットホームな空間なのだ。
一般的なFMラジオ局とは、ずいぶん印象が違う。
「パーソナリティは約60人います。芸人の卵、俳優、アーティスト、演歌歌手、介護士、主婦まで、年齢も職業もバラバラです」
住宅地域に異色の放送局を開いた本庄さん。その人生は電波同様、大きな波があった。少年期に上岡龍太郎やビートたけしなど毒舌芸人に憧れた彼は、高校をわずか数か月で中退。
吉本興業の芸能学院「NSC」の11期に入学し、中川家、陣内智則、ケンドーコバヤシら、後の人気芸人たちと同期になる。そうして「毒舌芸を究めたい」と、漫才コンビ『ブラックリスト』を結成。しかし、皮肉を効かせたネタが若い女子の観客に受け入れられず、吉本を出てフリーランスとして生きていくと決意した。
「インターネットなんて、ない時代。仕事を得るために、毎日が必死でした。図書館へ行って、北海道から九州までのタウンページを、すべて読みました。そして放送局の電話番号を片っ端からメモし、電話で営業したんです」
努力のかいあり、28歳で初めてラジオ番組のレギュラーを得た。一匹狼の風刺芸人は、しぶとく生き続けたのだ。ところが、四十路を超えたある日、人生の岐路に立たされる出来事が起きた。
■芸人引退を決断後ラジオ放送局設立!
「映画に出演したんですが、長い台詞が覚えられない。これまで記憶力には自信があったんですが……。カンニングペーパーを見ながら、なんとか乗り切りましたが、“このままでは周囲に迷惑がかかる”と思い、引退を決断しました」
芸人を辞めて、ふと考えた。
「初めてラジオのレギュラー番組を持てた日の喜びを、後世に伝えたい」と。そして、ついに、なんと自らラジオ放送局を起ち上げた。
「開局半年まではパーソナリティ集めに苦労しました。路上で演奏している若者に、“ラジオ番組やらへんか?”と声をかけた夜もありました」
現在はラジオ番組の制作と放送・配信を通じて若手クリエイターの育成に励む他、各地のミニFM局に技術提供を行っている。
インターネットのラジオアプリで、全国からも聴取可能。40代で人生を変えた男の生き様に、ぜひ耳を傾けてほしい。