12月9、10日の両日に行われるJRAの重賞競走は全部で3つ。9日は、中京競馬場でG3中日新聞杯。10日は、中山でG3カペラステークス、阪神では、G1阪神JFが待っています。

 現在、芝2000メートルのハンディキャップ戦となっている中京新聞杯ですが、開催時期が何度か変更されていることもあって、僕が参戦したのは7度だけ。勝ったのも、テン乗りとなった1995年のゴーゴーゼットとともに挙げた1勝のみ。

 たまたま、騎乗依頼がなかった。すでに他場への参戦が決まっていた……理由はさまざまです。昨年は、ジャックドールと香港カップ、ブルームと香港ヴァーズに参戦するため、日本を離れていました。

 体が二つあったら、よかったのに――。たまに、そういうことを思ったりもします(笑)。

 それでも、7度参戦して1勝を挙げている中日新聞杯はまだ、記録にも記憶にも残っていますが、2008年に創設されたカペラSは、これまで1度も勝っていないどころか、参戦したこともありません。

 JRAのG1コンプリートまで、マジックは1。ホープフルステークスを残すのみですが、G2、G3を加えると、両手、両足の指では足りないほどあり、カペラSも、その一つです。

 中日新聞杯とは違い、こちらの理由は、もう明らか。同日に開催されるG1阪神JFと丸かぶりとなっているためです。

 JRAで施行されているすべての重賞を制覇したいという気持ちは、もちろんありますが、こちらを達成するためには、体が三つ、四つは、欲しいところです(笑)。

 2歳牝馬の頂点を決めるレース、デビューしたその年1度しかトライできない阪神JFに初めて挑んだのは、デビュー3年目。当時は、阪神3歳牝馬ステークスという呼称でした。

 パートナーは、後にマイルCS連覇を成し遂げたダイタクヘリオス。2枠5番から好スタートを切り、そのまま最後の直線へ。

 行ける。行ける……はずだ……。頑張れ!

 もう、ちょっとだけ……祈りながら馬を追っていましたが、最後の最後、コガネタイフウに強襲され、アタマ差の2着。あのときの悔しさは、今でもはっきりと覚えています。

 このレースを含め、阪神JFに挑んだのは、全部で24回。歓喜の輪に包まれたのは、94年のヤマニンパラダイスの1度だけで、その後は、ライバルたちに阻まれ続けています。

 当初、2週間で復帰できると思っていたケガの回復が遅れ、この原稿を書いている時点では、レースに復帰できるかどうか、復帰できたとして、今から騎乗依頼をいただけるのかどうか、すべてが不確定です。

 しかし、諦めたら、そこで終わりです。

 騎乗依頼をいただけたときに万全の状態で臨めるよう、まずは、心の準備から始めます。

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