大河ドラマ『光る君へ』紫式部「藤原道長夜這いの真意とは」の画像
NHK大河ドラマ『光る君へ』主演の吉高由里子

 南北朝時代の系図集『尊卑分脈』に「(紫式部は)藤原道長妾」とあり、それ以降、彼女が道長のオンナだったという解釈が定着し、映画『源氏物語 千年の謎』(東宝、2011年)でも、中谷美紀演じる式部と道長(東山紀之)は男女の関係にあった。

 NHK大河ドラマ光る君へ』でも今のところ、そういう雰囲気が漂う。その真相を探る前に時の権力者、藤原道長という男の生涯を簡単に振り返っておこう。道長は康保三年(966年)、藤原兼家の五男に生まれたが、一条天皇の外祖父として摂政に任じられた父亡き後、その権勢を引き継いだのは兄の道隆と、その息子の伊周だった。

 しかし、一条天皇の母(道長の姉)が道長をかわいがり、彼女が天皇に道長を出世させるよう口添えしたことが歴史書の『大鏡』に記されている。そんな道長は30歳で右大臣へ昇進し、ライバルの伊周が失脚したこともあって左大臣へ。彼が摂政になるのは51歳のとき。一条天皇の后となった娘の彰子が後一条天皇を産んで父・兼家と同じく天皇の外戚になってからだ。この彰子に女房として仕えたのが、紫式部だ。

 式部が女房になった当時、一条天皇の皇后・定子(道隆の娘)の女房の中には、『枕草子』の作者で才女の清少納言(次号で詳述)がいた。このため、天皇と娘の彰子の間に皇子をもうけたい道長が、定子に負けないような文化サロンを作ろうと、妻・倫子と又従姉妹の関係であり、『源氏物語』で有名になりつつあった式部に白羽の矢を立てたとされる。

 そもそも彼女が『紫式部日記』を書き始めたのは寛弘五年(1008年)、彰子が道長にとって念願の天皇の子(後の後一条天皇)を宿し、その皇子出産のために土御門邸へ里帰りしたとき。当然、日記では道長に温かいまなざしを向けている。そうして、翌年のある夜、事件は起きた。

 式部の部屋の戸を誰かが叩き、彼女がじっと身を潜めていると、翌朝、歌が贈られてきたので歌を返したという。情を交わした男女が、こうした歌のやりとりをするのは常識だった時代で、この戸を叩いた男が道長であったのは他の史料で確認できる。

 ただ『紫式部日記』には、「恐ろしさにそのまま答えをしないで夜を明かした」とあり、式部が時の左大臣の夜這ばいを気丈にも断った形だ。後世、この解釈を巡り、「そう何度も断れないので最後は道長のオンナになった」と解釈される。

 しかし、天皇の平均寿命が30代の当時、道長はこのとき44歳で、まずまずの高齢。もちろん、藤原実資のように55歳で娘をもうけた例もあるが、実資は女好きで知られる公卿。筆者は、式部が好意を抱いていると知る道長がからかう気持ちで戸を叩き、式部を驚かせてやろうとしただけのような気がするのだが……。

跡部蛮(あとべ・ばん)歴史研究家・博士(文学)。1960 年、大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『超新説で読みとく 信長・秀吉・家康の真実』(ビジネス社)。

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