昨年放送されたNHK大河ドラマ『どうする家康』で徳川家康の正室瀬名(有村架純)が自害した際、ネット上に“瀬名ロス”“有村ロス”という文字が躍り、ドラマでは家康との仲睦じい姿が描かれていた。
その一方で、家康が今川方から織田方へ寝返った際、離縁されていたという説もある。
家康と彼女の本当の関係はどうだったのだろうか。
瀬名という名は江戸時代中期に編纂された『武徳編年集成』という家康の伝記に記載があるものの、そこでは「関口あるいは瀬名」と両論併記されている。彼女の父親の名も諸説あって定まらないが、有力なのは関口氏純という今川家重臣。同じく今川家重臣の瀬名一族から関口家へ養子に入った武将で、彼女が父の実家で生まれたから瀬名姫と呼ばれたというのが通説だが、その事実は確実な史料で確認できず、家康の正室の名が「瀬名姫」だったという説は江戸時代の中期以降に定まった話だ。
一方、彼女が「関口姫」と称されていた事実も確認できず、彼女と同時代人の松平家忠(家康家臣)の日記に「信康御母さま」と記される。彼女が家康の嫡男信康の母だからだ。
ただ、彼女の名をいちいち「信康御母さま」と呼ぶのも煩わしかっただろう。そこで石川正西(川越藩家老)が江戸時代の初めに書いた見聞集を参考にすると、「岡崎城で(家康と)一所に住んでおられず、つき山にお住まいだったから、つき山殿と人は皆そうお呼びしていた」とある。
この「つき山殿」に「月」や「築」の字があてられ、江戸時代の史料で、その築山が「岡崎城外の北東」にあったことがわかる。
ところで、「築山殿」はいつ駿府(静岡市)から岡崎に移ったのか。駿府でいわば人質だった家康は桶狭間の合戦(1560年)の直後に本拠の岡崎城を取り戻して自立。通説では築山殿が二年後に人質交換で信康とともに岡崎へ入ったとされる。ただ実際には、人質交換で岡崎入りしたのは信康のみであって、彼女は夫家康の帰還と同時に岡崎へ移っていたが、家康と一緒に暮らさず、築山で別居を強いられた形だ。当時まだ家康は今川陣営に属し、織田家と同盟を結んでおらず、その時点で今川家ゆかりの正室と別居したわけだ。
このため、今川家から重臣の娘を嫁に押し付けられた家康が自立と同時に離縁したとされるが、その後も彼女が家康の正室として家政に関与した事実が窺うかがわれる。しかし、家康との間に一男一女をもうけたのは駿府時代の話。岡崎時代に家康との性交渉はなかったとみられる。つまり、今川家から押し付けられた正室と家康との夫婦関係は冷えきり、自立するのを待っていたかのように家康は正室と別居するのだ。決して二人は仲睦まじい夫婦ではなかったのだ。
後期課程修了。著書多数。近著は『超新説で読みとく 信長・秀吉・家康の真実』(ビジネス社)。