「長きにわたり、リングに上げていただいて、どうもありがとうございました。思い残すことは何もない」

今年2月13日、人気プロレスラー・佐々木健介(47)が引退会見を行った。

昨年の「絶対王者」小橋建太の引退に続く人気者の戦線離脱に、ファンは寂しさを隠しきれないが、これは、ある意味で致し方がない「必然の流れ」だと言える。

還暦を過ぎてもなお、リングに上がり続けたジャイアント馬場を例に挙げるまでもなく、年齢を重ねても現役であり続けるレスラーは多い。しかし、年を経ていくにつれ、リングに上がることがどれだけ危険なことなのかを思い知らせてくれたのが、三沢光晴の「リング死」。プロレスとは、かくも過酷なスポーツなのだ!

プロレスファンを震撼させる事件が起きたのは、2009年6月13日、広島県立総合体育館グリーンアリーナのリング。『プロレスリング・ノア』の社長兼トップレスラーだった三沢光晴(敬称略=以下同)が、試合中、相手レスラー・斎藤彰俊の放ったバックドロップを受け損ねて意識不明の重体に陥り、そのまま死亡してしまったのだ。

三沢といえば、「受け身」のうまさでは定評があった。その三沢が、バックドロップという基本技の受け身に失敗し、46歳の若さで命を落としたことで、人々は改めてプロレスの「危険性」を再認識する結果となった。

実は、デビュー以来の数々の激闘の後遺症で、三沢は、頸椎、肩、腰、膝などに慢性的な痛みを抱え、満身創痍だった。それでも、団体の経営者であり、トップレスラーという立場から「休養」を取れなかったのだ。

加えて、テレビ地上波の中継が打ち切られた直後ということもあり、多少、体調がおかしくとも、社長として「無理」を重ねなければならない状況に追い込まれていた。

死の4日前、東京スポーツ紙のインタビューで、「もう、やめたいね。体がシンドイ」と答えていたのは、三沢の心からの「叫び」だったのかもしれない。

その三沢は、ジャイアント馬場の魂を受け継ぐ「王道プロレス」の後継者として知られていたが、もともと、馬場の後継者と目されていたのはジャンボ鶴田。

アマレスの五輪代表から全日本プロレスへの「就職」を決めた鶴田は、70年代後半から80年代に、ブッチャー、ハンセン、ブロディらと名勝負を繰り広げた。

しかし、「これから」というときにB型肝炎に襲われ、1992年から長期入院。一線を退いて、筑波大学大学院に入学、その後、非常勤講師となり、「大学教員兼レスラー」の道を歩んだ。

その後、B型肝炎は肝硬変、肝臓がんへと悪化。鶴田は「生体肝移植」の道を選び、00年春、フィリピンへと渡った。しかし、この手術が失敗に終わる。手術中にショック症状を起こして大量出血。同年5月13日、恩師・ジャイアント馬場の死後約1年で、後を追うように帰らぬ人となってしまった。49歳だった。

刺殺や自殺、事故死…いったい何が?

日本のレスラーで最もショッキングな亡くなり方をしたのが、プロレスの創始者である力道山。

63年12月8日、赤坂のナイトクラブで、”ヤクザ”とイザコザを起こして、刺されてしまったのである。刺された腹部の傷は致命傷にはならず、翌日、山王病院で行われた手術も成功したと伝えられたが、その1週間後に息を引き取った。

巷間の噂によれば、死因は「空腹に耐えかねた力道山が手術直後、医者に黙って寿司と酒で胃袋を満たしたことが原因で病状が悪化した」とも言われている。また、「手術の際にミスがあり、医療事故で死亡した」などの説もある。

いずれにせよ、彼の早すぎる死が、後のプロレス界の歴史に大きな影響を与えたことは確かだ。

その力道山と死闘を繰り広げた「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリックは、プロモーターを兼任し、一時はアメリカのプロレス団体『NWA』の会長も務めていたほどの大物レスラー。

彼自身は98年に68歳で死去したのだが、彼の長男、ハンス・アドキッセン・ジュニアが幼くして不慮の事故死を遂げて以降、デビッド(病死あるいは薬物中毒)、ケリー(試合中のケガによる敗血症)、マイク(自殺)、クリス(自殺)など、息子たちがことごとく死去。現在でも健在なのは、次男のケビンのみで、「血塗られたエリック一家」と噂されている。

一方、力道山と同様、”刺殺”という形で命を落としたのが、「超獣」の名前で、日本でも人気を博したブルーザー・ブロディ。

88年7月16日、遠征先のプエルトリコでプロレスラー兼ブッカーのホセ・ゴンザレスに刺され、翌17日、出血多量で死亡した。ブロディが、当時の『WWC』(プエルトリコの人気団体)のボスであるカルロス・コロンとトラブルを起こしたため、配下のホセが「鉄砲玉」として、ブロディを「制裁」した形だ。

不可解なことに、現場に居合わせたレスラーたちは、揃って裁判での証言を拒否。ホセは結局、無罪判決を受けている。

「大巨人」アンドレ・ザ・ジャイアントは93年1月27日、パリのホテルで急性心不全のために死去。46歳だった。

彼の場合、長年にわたる過度の飲酒が命を縮めたと言われている。たとえば、元プロレスラーのミスター・ヒトと中島らもの対談『クマと戦ったヒト』の中では、アンドレが車で800km移動する際に缶ビール118本を飲み干し、到着後に5ガロンのワインを飲んだというエピソードが記載されている。彼について、この手の話は枚挙にいとまがない。

それでいて、練習をあまりしなかったため、心臓にかなりの負担がかかっていたと推測される。

ショッキングな「怪死」の裏に「因縁」も!

まさに「怪死」としか形容のしようがない「死に様」を見せたのが、米人気団体『WWE』のトップレスラーだったクリス・ベノワのケース。

07年6月24日、出場予定だった大会を「家庭の事情」で急遽、欠場。翌25日、ジョージア州の自宅で、妻、子供とともに遺体で発見されたのだ。享年40。

地元警察の捜査の結果、衝撃的な事実が判明した。ベノワは、22日に妻を拘禁し、絞殺。翌23日、息子の顔を枕に押しつけて窒息死させたうえ、自身は自宅の地下のトレーニングルームで首つり自殺していたのだ。

日本流に言えば「無理心中を図った」ということになるが、アメリカにはそうした概念はないので、「多重殺人事件および自殺事件」と発表された。

ベノワがこのような行動を取った動機として、「ステロイドの副作用による鬱状態がもたらしたもの」とする説や、「遺伝性の難病を患った息子の将来を悲観した」など、様々な説が飛び交った。

後に、専門家チームが調査したところ、ステロイドでなく「慢性的な外傷的脳損傷」が原因との疑いが強くなったという。ベノワの脳は、85歳の老人の脳と同じぐらいに萎縮していたらしいのだ。

再び、日本に話を戻そう。

05年7月11日、脳幹出血で病院に搬送され、40歳の若さで命を落としたのが、「破壊王」の名前で親しまれた橋本真也。

長年のダメージの蓄積、不摂生、睡眠時無呼吸症候群など、彼の死因については諸説囁かれているが、精神的なストレスが彼を追いつめたという説が有力だ。

自らが立ち上げた「わが子」のようなプロレス団体『ZERO-ONE』を自らの手で終息させざるを得なかった無念さ。また、そのときに被った多額の借金、ケガゆえに、なかなか復帰できないもどかしさなどが、彼に精神的な重圧をかけていたのではないかと推測される。

その最期を看取ったのが、婚約者(というよりも、当時の事実婚のパートナー)の冬木薫さん。

彼女は、03年3月19日に大腸がんによる「癌性腹膜炎」で、この世を去った”理不尽大王”の異名を取る冬木弘道の未亡人であった。

その前年、大腸がんを理由に現役を引退した冬木が、生前、「最後の対戦相手」として指名したのが橋本だったのだ。

しかし、対戦予定日の5月5日を待たずに、冬木は42歳の若さで逝ってしまった。

ちなみに、若手の頃、この冬木と仲がよかったのが冒頭で紹介した三沢光晴。冬木が大腸がんだと知ったとき、三沢は、損得勘定抜きで冬木の引退興行を自らの団体で開催。その収益をプレゼントするという太っ腹なところを見せた。また、三沢は橋本の『ZERO-ONE』立ち上げのときにも、橋本に全面協力している。

なにやら、「因縁」めいたものを感じざるを得ない。

逝去したレスラーたちに合掌。
〈文中一部=敬称略〉

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