プチ鹿島の連載コラム 「すべてのニュースはプロレスである」

サッカーW杯の日本代表メンバーが発表された先週。

ちょいちょい気になったのが「サプライズ」という言葉だ。あの会見の日、朝から新聞やテレビで「選手発表にサプライズはあるのか!?」と言われていた。最近「サプライズ」を期待しすぎな気がする。いや、確かに何もないよりサプライズで感動したい。驚きたい。でも期待されてる時点でもうサプライズじゃないというパラドックス。

さて、断言できるが「サプライズ」という概念はプロレス界発のモノだ。

大技・新技炸裂に、思わぬ乱入、抗争の新展開、なんだかわからない感動。これらを「おーっと!」というフレーズでサプライズを盛り上げたのは古舘伊知郎アナ。私が忘れられないのは、1985年にブルーザー・ブロディがベートーベンの「運命」にのって新日本プロレスの後楽園ホール大会に出現した時だ。ライバル団体の全日本プロレスから電撃移籍し、参戦を表明しに現れた。

このときの新日本プロレスは全日との「ガイジン引き抜き戦争」に劣勢で「団体が潰れるのでは?」という悲観的な見方もあった。そこへブロディ登場というサプライズ。新日ファンはブロディに対し「新たな敵」というより「よくぞ来てくれた!」という感謝の気持ちで熱狂した。 ブロディが救世主に見えたのである。

しかし、この劇的な演出があまりにも成功しすぎ、プロレス界にはしばらく「サプライズ」の乱発が起きる。

この試合の参加選手「X」は誰だ?と派手に煽るのだが、だいたいが予想を下回った。団体によっては試合内容に自信がないことをカバーするためにセンセーショナリズムに頼った。おかげでプロレスファンはサプライズにいつしか飽きてしまったのである。

だから他ジャンルでのサプライズ多用が心配になる。

たとえばAKB48のドキュメンタリー映画を見ていると、AKB(運営側)はサプライズを多用している。ひとつのサプライズが大きければその刺激に慣れる。ファンはもっと大きな刺激を期待する。プロレスファンとしてはそれ一点が気になるのだ。

オリンピック特番などでよくみられるタイトル「感動をありがとう」もサプライズ行き過ぎ系だ。まだ競技が始まってないのにサプライズを先回りして待ち構えている。だからそれはサプライズじゃない。

ここ数年で興味深かったのは第二次安倍内閣発足の時、大臣の顔ぶれに「サプライズがないのがサプライズ」と報道されていたことだ。

何度も言うが、それサプライズじゃないから。


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