新沼謙治 ベテラン歌手が今だから話せる「生放送での大チョンボ」の画像
新沼謙治 ベテラン歌手が今だから話せる「生放送での大チョンボ」の画像

涙あり!笑いあり!スクープあり!?
お宝写真で綴る あの芸能人「若気のいたり」
第3回 新沼謙治編


芸能生活38周年を迎える歌手・新沼謙治が今、再びブレークしている。
13年7月にリリースした前作『ふるさとは今もかわらず』はオリコン初登場25位。新沼にとって初登場でトップ30位入りは77年5月の『ヘッドライト』以来、実に36年2カ月ぶりのこと。
しかも今は「歌が売れない時代」。その中でのトップ30位入りは当時とは比べ物にならないほど、困難な中での快挙だ。
「僕にとって『ふるさと~』で出会ったコーラス・杉並児童合唱団は衝撃的でした。“ああ、僕はコーラスが好きなんだ。児童合唱団との出会いは必然だったんだ”と感じましたね。実際、『ふるさと~』はなんと『アナと雪の女王』より譜面が売れている。被災地でこの歌を歌うと盛り上がるので、本当に嬉しいです」
こう、新沼は目を細めて話す。
今や新沼にとって杉並児童合唱団は切っても切れない関係と言っても過言ではない。
その杉並児童合唱団とのジョイント企画第2弾が14年11月19日に発売。最新アルバム『謙治(ぼく)の詩(うた)』がそれだ。
今作では、新沼が自らの支持対象者である高齢者を意識。セルフカバー全集となる『謙治~』だが、オリジナルよりも滑らかな歌い方を試み、高齢者に視聴しやすい曲作りに拘った。
「とにかく“耳触り”のいい歌を考えました。“うるさく無い”というのが前提。優しく、優しく…がテーマです。それと曲順に遊び心を取り入れました。これまでは同じような曲を並べていましたが、『謙治~』ではそれを無視。歌謡曲から入り、演歌は4曲目、5曲目に導入。そうかと思えば杉並児童合唱団の歌も入るといういろいろなジャンルの歌が楽しめる作品になっています」(新沼)
新沼自身も制作スタッフに名を連ね、音源から曲順まで仲間と喧々諤々したという。
最近では被災地を中心に新沼がフューチャーされているのだが、それには深い事情がある。
岩手県大船渡市出身の新沼。11年3月の東日本大震災で故郷は被災、東北が全壊した。
東北出身の新沼は復興の為、チャリティーコンサートを東北で展開したのだ。
ところが、ちょうどその時はバトミントン元・世界王者の博江夫人の癌が深刻化。私生活を鑑みれば、チャリティーに力を注いでいられない状況だった。
それでも新沼はチャリティーに没頭。9月に博江夫人が還らぬ人になった時も山形でコンサートをしており、最期を看取れず、悲しい別れとなった。新沼が語る。
「東北や被災地の方は本当に温かかった。僕の事情を知っていたようで、それ以後、僕をこれまで以上に優しく見てくれる。最近では“新沼謙治といえばちょっとした人気者”になりました。ありがたいことです」
円熟期を迎えても多忙な生活を営んでいる新沼だが、76年2月『おもいで岬』のデビュー時は今以上のスケジュール。不眠不休を余儀なくされていた。
新沼が当時を次のように振り返る。
「とにかく休みが無い。祖父が他界した時も墓前に初めて行ったのは逝去3カ月後。ピンクレディー、内藤やす子さんが同期ですが、当時は僕も含め、皆さん1日15本は仕事をこなしていた。生放送の合間に紙媒体の取材が入るという生活です。1~2年は休みがなかったですね」
 

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人気絶頂だった時代のブロマイド。時代を感じる

 


睡眠時間も1日平均2~3時間という時代。「とにかく仕事、仕事」の毎日にさすがの新沼青年も疲労困憊していた。

 

 

 

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とにかく忙しかった時代のレコーディング風景

 


多忙を極めていた時だけにチョンボは付きものだが、新沼の失態は、想像を絶した“事件”だったのだ。
「その日は朝からTBSで“新沼謙治の為の生放送”があったのです。ところが、疲れていた僕は目覚まし時計が鳴っても熟睡。どういうわけか、その日に限ってマネジャーも僕の自宅マンション下に駐車していた車で寝入ってしまったんです。本番間近にも関わらず局入りしない僕を案じて局から僕のチーフマネジャーに連絡が入りました。それを受けチーフマネジャーからウチに電話が入ったのです。
“お前、何してんだ~”
慌てて僕は着替えてタクシーに乗り込んだんですが、焦っているものだからTBSに行く所をフジテレビに行っちゃって…。玄関で“そんな番組、ありません”と受付に言われて初めて素に戻り、TBSに向かったのです。
もう、その時は生放送なので“新沼さんは今、こちらに向かっております”という実況中継されてました。恩師や関係者が待っている番組に急いだんですが……」
何とかTBSに到着。控室に入り、本番用の衣装に着替えた…までは良かったのだが……。
「当時、僕は同じ靴を色違いで2足買う習慣があったのです。ビックリしたのが何と持ってきたブーツの色が左右違うのです。片方が黒で片方は茶色。もう、目先真っ暗。ただ、そういう時は咄嗟に機転が利くのです。近くにあったマジックで茶色の靴を黒く塗りつぶして、ようやく出演に辿り着けました(笑)」(新沼)
当時は「リサイタルが終わると営業で秋田へ直行」が当たり前。リサイタルの打ち上げなど無い時代だったという。

 

 

 

 

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また、あの姿がお茶の間に

 


その頃の勢いは無いにしてもスケジュールが真っ黒の生活は今も変わらず。来年で芸能生活40年の新沼にとって、悲しみの先にあったのは、「「ブーム再来」だったようだ。

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