2代目タイガーマスク、全日本プロレス社長、プロレス四天王としての活躍、そしてプロレスリング・ノア旗揚げ。「天才」という名を欲しいままにしつつ、2009年6月13日におきた「リング上での死」という形で、ファンに衝撃を与えたままこの世を去った三沢光晴。
先日発売された「俺たちのプロレスvol.2(双葉社スーパームック)」では、彼と関係のあった10人のレスラーの証言を集め、プロレスラーとして、また男として、三沢がどんな人間だったのかに迫った。今回は、特別にその中から一部を抜粋して紹介したい。


「初めてシングルをやったときも、“食ってやる”っていう気持ちだけだった。だけど、噛み付いたら、俺の歯の方が折れる、みたいなね」

──髙山さんは以前、「三沢さんから受けた影響は凄く大きい」って言われてましたよね?

髙山 そうだね。影響は大きいよ。

──それは全日本プロレス時代からですか?

髙山 うん。俺は最初、(ジャイアント)馬場さんに呼ばれて全日本に上がり始めたんで、馬場さんと俺とのやり取りしかなかったんだけど。馬場さんが亡くなってから三沢さんが社長になって。その後も、普通にフリーとして全日本に上がり続けるつもりだったんだけど、三沢さんが「それじゃ不安だろうから入団したほうがいいんじゃない?」って言ってくれて。それで入団したんだよ。

──もともとフリー参戦だったのが、三沢さんの一言で全日本所属レスラーになった、と。

髙山 あのときは単純にうれしかったね。フリーでもべつに不安とかはなかったけど、ちゃんと俺のことを考えてくれていた人がいたっていうことがうれしかった。

──新社長が髙山さんの立場に立って考えてくれたわけですもんね。それまで三沢さんっていうのはリング上ではエースでしたけど、全日本内部ではどんな立場だったんですか?

髙山 やっぱり現場のトップだったよ。馬場さんは別格だったから、馬場さんが天皇陛下だとしたら、三沢さんは総理大臣、ホントそんな感じだった。

──なるほど(笑)。でも、馬場さんという“天皇”が崩御されたことで、三沢さんが完全なトップには立ったけれど、いろんなバランスが崩れてしまったわけですよね?

髙山 そうだね。当時、会社の上層部内でいろんなゴタゴタがあったんで、三沢さんも、しんどそうだったよね。

──髙山さんもそういう状況がよくわかるくらいだったんですか?

髙山 なんとなくだけどね。ゴタゴタしてるのはわかったんで、三沢さんもこのまま続けていくのはしんどいだろうなっていうのは、わかっていた。

──では、団体が割れることになる予感はありましたか?

髙山 どうなっちゃうのかっていうのは、予想もしなかったし、予感もなかったんだけど、ただ、大変そうだなって思ってたね。

──そして、ある日、三沢さんから新団体参加についてのお誘いが来るわけですか。

髙山 そう、急に普通の巡業中に言われたんだよ。当時の全日本は日本人選手用のバスと外国人用バス、その他に三沢さんが乗ってる社長バスっていうのがあって、俺は当時ノー・フィアーとして活動してたんで、他の日本人とは別行動で、社長バスで移動してたの。それでも、ホテルはみんな一緒のことが多かったんだけど、その日は社長バスだけが違う旅館に泊まってね。そのときは、「まあ、部屋数の関係もあるだろうから、そういうこともたまにはあるかな」って思ってただけなんだけど。夜、旅館だから一緒にメシを食ってたら、突然、三沢さんが「全日本を出て、新しいところでやっていくつもりなんだけど。髙山選手も来てくれないか?」って言ってきたの。

──そのとき、髙山さんは二つ返事ですか?

髙山 うん。当時の俺は、団体うんぬんじゃなくて、「三沢さんと闘いたい」っていう気持ちが強かったから、三沢さんが行くなら行くって。

──「三沢さんと闘いたい」っていうのは、どんな理由からですか?

髙山 全日本では、最初、川田利明を追いかけてきて、それが一区切りついたあと、小橋健太と闘うことにやる気になってて。後半になると三沢さんと絡み出すようになったの。三沢さんとやる前はそんなに「闘いたい」とは思ってなくて、「三沢さんはどうなんだろう?」ぐらいの感じだったんだけど、やってみたら奥が深すぎた。底が見えない底なし沼みたいな感じで、「うわっ、この人すごい」ってなって、「この人に向かっていったら、俺はどんどん成長できる」と思った時だったんだよね。

──ちょうど、三沢さんの凄さを感じて、もっともっと闘いたいと思っていた時だった、と。

髙山 そう。

──じゃあ、「全日本四天王」って一括りにされてましたけど、ほかの3選手と三沢さんは全然違いましたか?

髙山 違ったね。ホント全然違った。

──それは闘ったときの当たりが違うとか、そういう単純なことではなくて。

髙山 うん。なんて言うんだろう、何をやっても大丈夫っていう、そんな感じ。

──よく「すべてを受け止めてくれる」みたいに言いますけど、そういう感じですか?

髙山 ホント、そんな感じ。しかも、それは容赦なくガンガンいって、やった俺だけが満足するんじゃなくて、そうさせることによって、観ているお客さんも満足させる試合に成立させるんだよね。ホントそれが凄くて。「すげえ!」って心から思ったもんね。

──相手がどんなふうに来ても、それに合わせられる能力というか。

髙山 オールラウンドプレイヤーというのは、ああいうことを言うんだろうなって思ったね。

──プロレスは個性と個性のぶつかり合いとも言われますけど、三沢さんの場合はぶつからずに、融合するというか。

髙山 ぶつかってるんだけど、それを融合させる。なんかね、ニック・ボックウィンクルの言葉どおりなんだよ(笑)。

──「相手がジルバで来たらジルバで、ワルツで来たらワルツを踊る」という(笑)。

髙山 そうそう(笑)。だから俺は三沢さんと闘うことで、「これがプロレスなんだ」って思ったもん。

──そこに初めて触れて気づいた、と。

髙山 そう。それまでは、さっきのニック・ボックウィンクル言葉、「ワルツで来たらワルツを踊れ」なんて、「何言ってんだ、バカ野郎」って思ってたんだけどさ(笑)。三沢さんに触れたら、「そういうことか!」って気づかされたんだよね。

──三沢さんと闘うことで、プロレスの扉をひとつ開けることができたわけですね。

髙山 そして、その扉は凄く重要な扉だったね。本当の意味で「プロレスを知ることができるかどうか」っていうのは、あのドアが開けられるかどうかがすべてかもしれない。一流のプロレスラーになるためには、一番大事な扉だったね。

──なるほど。そして、せっかくその扉を開けたのなら、もっと奥まで見たくなりますよね。

髙山 そうそう。もっと奥にもっと違う扉があるかもしれないからね。要は昔の若手を海外修行に行かせるっていうのは、どんなタイプとでも試合ができるようにするためでしょ? どんなお客さんの前でもいい試合ができるようになるための海外修行だから。 

──それが90年代になると、なかなか海外修行もできなくなる中で、日本にいながらにして感じさせてくれたのが三沢さんとの試合だった、と。

髙山 ホント、そうだよね。「あ、これか」って思わされたから。まあ、たまたま俺は日本国内でいろんなタイプと闘う機会があったけど、「これがそういうことなんだな」って感じられたのが三沢さん。

──じゃあ、それがなかったら、フリーとしてあらゆる団体を制覇ということはできなかったかもしれないですね。

髙山 できなかっただろうし、いろんな団体に上がりはしたかもしれないけど、席巻はできなかったかもしれない。

──三沢さんと初めてシングルで当たった頃(90年代末)っていうのは、もう髙山さん自身も、自分のプロレスに自信を持っていた頃ですよね?

髙山 うん。

──ノー・フィアーでイケイケの頃で。

髙山 もう、すごいイケイケで、超生意気だったよ(笑)。一番体力もあったしね。だから、三沢さんと初めてシングルをやったときも、「食ってやる」っていう気持ちだけだった。だけど、噛み付いたら、俺の歯のほうが折れる、みたいなね。

──なるほど。やわらかいように見えて、まったく噛みきれない。

髙山 最初は歯形も残せたかどうかっていう感じでね。なんとか、この人に食らいついていきたいって、ホントに思ったから。

──じゃあ、全日本からノアに移籍したっていうのは、マット界の情勢を見て「どっちが得か」って感じで移ったわけじゃなかったんですね。

髙山 その瞬間はね。Uインター、キングダムが潰れて、全日本と新日本、どっちに行くか? っていうときは、どっちに行くのが自分にとって得かって考えたけど、ノアに行くときは三沢さんがいるところに行きたかったから、迷いは一切なかった。


髙山善廣(YOSHIHIRO TAKAYAMA)
UWFインターナショナル、キングダムを経て全日本プロレス所属に。ノアへ移籍後はフリーとなり、PRIDEや新日本プロレスなどの他団体にも参戦。数々のタイトルを獲得して「プロレス界の帝王」の異名を持つ。


インタビュー◎堀江ガンツ

『俺たちのプロレスvol.2(双葉社スーパームック)』より一部抜粋、全編は本誌にてお楽しみください。

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