ちょうど1ヶ月前にこのコラムで《いまのスターダムには「成長過程を見守る」という楽しみ方がある》と書いた。

そのスターダムで事件が起きた。一般のニュースにもなっているのでご存じの方も多いと思う。

2月22日に行われた後楽園ホール大会での世IV虎(よしこ)選手と安川悪斗(あくと)選手の試合。世IV虎が一方的に悪斗の顔面を殴り続け、顔が変形し大怪我を負う惨事となった。

私はスターダムもよく観戦しているがこの日は仕事の都合で行けなかったので、どういう状況で、どういう空気だったかはわからない。唯一わかるのはその後の「反応」だ。

一番違和感があったのが「週刊プロレス」(3月11日号)の表紙である。

血だらけの安川悪斗が表紙なのだが、私が「え?」と思ったのが「リングは私怨をぶつける場ではない!」というコピーだった。

嘘を言ってはいけない。プロレスにはさまざまな形があるが「私怨をぶつける」瞬間を見るのが、感じ取るのが、観客の醍醐味のひとつではなかったか。私怨こそ、表現次第では最高のスパイスになり得るのがプロレスではなかったか。

過去にも「不測の事態」の試合はたくさんあった。何が良くて何が悪いのか。その見分け方はひとつだと私は考える。それは、どんなに業界から叩かれても、マスコミから批判されても、自分のファンからは試合後に「よくやった!」と言われたかどうかだ。その後もずっと語り継いでくれるかどうかだ。これに尽きる。今回の世IV虎には決定的にそれが欠けている。

かつて長州力は藤波に「俺はお前の噛ませ犬じゃない」と叫んだ。これはリング上だけのパフォーマンスだけでなく「なんで俺がいつまでもお前の前を歩かなきゃいけないんだ」という人生の思いが叩きつけられたからこそ、ファンは共感したのだ。たとえ当時の業界的にNGな言動だったとしても。

その長州の顔面を蹴って不測の事態を起こし、解雇されたのは前田日明だ。猪木に「プロレス道にもとる行為」と言われたが、ファンは前田を見捨てなかった。前田とUWFに対する当時の新日の扱いを考えるとファンは前田の私怨に「乗れた」のだ。共感できたのだ。私的なリアルな感情をぶつけたからこそ、多くの心が動いた。前田は解雇されたが新生UWFの旗揚げにファンは殺到した。

あえて言えば、己の暗い感情をも観客にもシェアさせることができるかどうかがプロだ。今回の世IV虎は私怨をぶつけたのが問題なのではない。私怨をうまくビジネスに変換することができなかったことが問題なのである。これが今回の騒動の本質だ。

たとえば同じスターダムの紫雷イオは姉の紫雷美央と禁断の姉妹対決を先日おこなって話題になった。2人には私怨よりもっと根深い血縁が生むややこしい感情があったはずだ。もしかしたら技をスカされるかもしれない。不穏な展開になるかもしれない。しかし2人はそんな雰囲気をも含めていい試合にした。私怨(=ガチの感情)をどうリングに反映させるのか。それがプロなのだと思う。

それは通常のプロレスでもおこなわれている。この一節を引用しよう。かつて激しい戦いをしたハンセン・ブロディVSファンクスを語っている一節である。

《ハンセン・ブロディの試合なんていうのは、いつまでもエースで居座ってベビーフェイスでやっていたファンクスに対する苛立ちがあったわけです。さらにブロディには、テリー・ファンクがハンセンを新日本から引き抜いてきたために自分のポジションが揺らいだという遺恨があって、でもハンセンは友達だからそう言えない。それでその苛立ちをファンクスにぶつけたわけです。テリーはテリーだから、やられ得だと思ってガンガンやられるわけ。その無数の思惑が一気にぶつかって、普通で言う、お互いにいいところを見せ合う試合のバランスを圧倒的に崩すような試合ができちゃったわけです。》(現代思想 2002年2月臨時増刊 プロレス特集号より)

どうだろう、この言葉を読めば「相手の技を受け合うのがプロレス」などと知ったふうに言ってしまうのが恥ずかしくなるだろう。

レスラーも人の子である。観客にいい試合を見せようという気持ちと共に、ガチな感情も野心もある。それをどう発露するか。いかに行間にぶち込んで凄い試合にできるか。観客を満足させるか。

今回の世IV虎にはその技術と精神がなかった。なら、私は言いたい。世IV虎は今後それを身につければいい。雌伏の時を経てさらに成長すればいい。安川悪斗は今回のことを自分の物語として観客と共有し、これを機に成り上がれ。

それが、《いまのスターダムには「成長過程を見守る」という楽しみ方がある》と書いた私の願いである。


 

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