現実を踏み抜く『人間力』見城 徹(幻冬舎社長)の画像
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「ビジネスで死ぬことはない。ならば、どんなに辛いことがあっても、正面突破してやるとの思いでこれまでやってきました」

多少色気づいた高校の頃、とにかくモテたくてモテたくて。でも、僕は劣等感の固まりでした。これは、僕の謙虚さから出たんじゃないですよ。今でも、その感覚はあるんですが、僕の顔は世界で一番醜いと思っていたんです。

中学校時代のあだ名は、タコでした。学友からタコって言われるのは物凄く傷つきます。だから、自分からタコを演じていたんです。あいつはタコの真似をするからタコって呼ばれるんだなって思わせるように。要は、自己防衛していたんですね。

だから、女性には無縁だと思っていましたね。ところが、高校は三流校に進学したんで、成績が常に学年で1、2番だったんです。もう、タコを演じなくてもよくなりました。
ただ、依然としてモテない。でもモテたい。そこで、全校生徒が憧れるマドンナに、どうしたら好きになってくれるか、どんなアピールをすればいいかと思い悩むわけです。

そこで辿り着いたのが、学生運動。当時、ベトナム戦争が勃発し、反戦運動が日本でも活発化していた時期で、これだ、と思いました。「DO NOT KILL IN VIETNAM」というバッジを買わせる反戦集会とかが結構あったんですよ。でも、実際にそういった集会に行くのは、うちの学校で俺一人なわけです。凄く目立って、得意気になりましたね。
ただ、この女の子にモテるためにというくだらない理由でやった反戦活動が、その後の僕に及ぼした影響は大きなものでした。

大学に入学してからは、学生運動により積極的に参加するようになりゲバ棒とデモの毎日でした。
そんな時に、三島由紀夫の割腹自殺と、日本赤軍のテルアビブ空港乱射事件が起こったんです。善悪はともかく、遠いイスラエルの空港での死を覚悟しての実力行使でした。ショックでしたね。この人たちに対して恥ずかしいと思いました。この人たちに全く顔向けできないと。
時に人は、ある思想を土台に理想とする社会を思い描きますね。でも、それだけじゃだめだ。重要なのは、その理想実現のために行動を起こすことだと思うんです。僕はそれを、現実を踏み抜くと言っています。

三島由紀夫は死の直前の演説で、"諸君は武士だろう。武士なのに、なんで自分たちを否定する日本国憲法を守ろうとするんだ。俺は四年待った。しかし誰も動かない"というメッセージを発するんです。これはたまらないですよね。今も脳にこびりついている。

彼らを見て、僕は死を賭して、革命運動をできないだろうと思いました。彼らに対して後ろめたさを感じるわけです。それならせめて、僕の憎み忌み嫌った資本主義の世界で、僕が台頭する。僕が出世し成功することで、この世の醜さを証明してやると決めました。

まあ、いきがりですよ。だから、大学を卒業して、普通に就職をしたんです。5社受けて、受かったのが廣済堂出版でした。
ビジネスで死ぬことはない。ならば、どんなに辛いことがあっても、正面突破してやるとの思いで、仕事にのめり込みましたね。テルアビブ空港で銃を乱射した奥平剛士は死んだし、三島由紀夫も命を絶った。革命運動では、正面突破をできなかった自分が、せめて仕事では正面突破したいとの思いでした。

その後、廣済堂出版を1年半で辞め、角川春樹さんに拾われ、角川書店で働くことに。ありがたいことに、ベストセラーと呼ばれる作品を何作か世の中に送り出せるようなりました。

41歳で取締役になったんですが、恩人である春樹さんの"コカイン事件"があり、筋を通し辞めました。精一杯の痩せ我慢でしたね。その時、僕を慕ってくれ、一緒に辞めたのが5人。いろいろな出版社から誘って頂いたんですが、やりたいことを突き詰めていくと、出版社を作るしかなくなった。

そうして幻冬舎を立ち上げたわけですが、正面突破の毎日。それはこれからも変わらないと思いますがね。

撮影/弦巻 勝


見城 徹 けんじょう・とおる

1950年12月29日、静岡県生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。廣済堂出版に入社し、『公文式算数の秘密』を企画し、38万部のベストセラー。角川時代には、編集長として『月刊カドカワ』の発行部数を30倍に伸ばし、5つの直木賞作品を担当。数多くのヒット作を手掛ける。幻冬舎を設立後も五木寛之の『大河の一滴』などのミリオンセラーを連発し、出版界の寵児となる。最近は、SNS『755』で「コメントしてくれた全員に返事をする」と決め、ネットユーザーに誠実な対応をしていたことが話題に。その『755』でのユーザーとのやりとりに大幅に加筆した書籍『たった一人の熱狂』が双葉社より発売された。

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