感涙の発掘エピソード「だからオレたちは応援するんだ!」プロ野球「男気伝説」 5

同僚愛 ヤクルト  宮本慎也 1970~

宮本慎也は入団12年目の06年、ケガで73試合しか出場できず、多くの時間を二軍球場で過ごした年末の契約更改時、球団は、宮本の貢献度を考慮し、減額ではなく500万円アップを提示した。
「宮本はそれを辞退し、自らにケジメをつけたいとの理由で、1000万円の減額を進言。この差額1500万円を、そのまま二軍球場のフェンス補修費に当ててくれと申し出たんです」(スポーツ紙デスク)

この宮本の申し出はそのまま了承された。
「このとき、ヤクルトの二軍が使う戸田球場の外野フェンスはクッション壁となりました。この通称"宮本フェンス〞のおかげで、二軍の外野選手はケガを恐れず、のびのびと練習できるようになったんです」(ヤクルト担当記者)

宮本はPL学園の出身。野球選手としては体格に恵まれなかった彼は、中村順司監督の指導の下で、ボールの動きを想定しつつ、夜も一人で練習を続けたという。そのため守備には定評があり、"どんな難しい球でも体の正面で捕り、軽く処理してアウトにする〞という技術を身につけている。「投手をハラハラさせたくない」からだそうだ。

その実直な性格と真摯な姿勢が評価され、
「アテネ五輪代表チームの長嶋監督からキャプテンの指名を受けたときは、選手全員が拍手で応えました」(スポーツ紙記者)

アテネ五輪出場が決まった翌日、選手一人ひとりに自筆の手紙を書いて、宿舎の部屋に配った。
「お前がいてくれて助かった。ありがとう」
こうした気配りがチームを一つにし、04年8月、長嶋ジャパンはアテネ五輪で銅メダルを獲得した。

PL学園で1年先輩の野球評論家・橋本清氏は、
「ヤクルトでも代表でも、自分が中心になってチームを強くしなければという意識を持っていました。いつか必ずヤクルトの監督になると思います」
と話す。

引退時、監督を打診されたが、「しばらく外から野球を見てみたい」と固辞したとも伝えられる宮本。一日も早くグラウンドに戻ってきてほしい。

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