アーティスト・辻仁成「芥川賞獲っても又吉さんのようにもてはやされなかった(笑)」~表現を追求する人間力の画像
アーティスト・辻仁成「芥川賞獲っても又吉さんのようにもてはやされなかった(笑)」~表現を追求する人間力の画像

「一時、マスコミには散々、叩かれましたが、敵を味方にしてこその勝利だなと思ったんです」

昨年の3月、突然、新聞の1面にデカデカと自分の名前が書かれていて驚きましたよ。僕は全然知らなかったから、あっそうなんだって。
それからは、激動の時間でしたね。今の生活の拠点であるフランスでは、子どもを学校に送るのが義務なので、朝起きて、子どもにご飯作って学校に送り届けて、子どもがいない時間に洗濯、掃除、炊事なんかの家事を済ませる。夕方になったら、学校に迎えに行ってご飯食べさせて、夜から仕事に取り掛かる。

その時に書きあげたのが、7月に出版された長編小説『日付変更線』と、8月に撮り終わった映画『東京デシベル』の脚本でした。大変だって思われるかもしれませんが、僕にとってはそんな環境がありがたかったですね。予期せぬ事態が起きて、何かにぶつかっていないと精神が壊れてしまいそうだったので、仕事や育児に精を出して、余計なことは考えずにすみましたから。

ただ、日本のマスコミにはいろいろと書かれましたね。僕の人生を振り返ってみると、常にマスコミに叩かれてきました(笑)。
『ECHOES』というバンドでデビューして、その後、小説『ピアニシモ』ですばる新人賞を頂いたら、"ミュージシャンが文学なんて書けるわけがない"という批判の声がかなり大きかった。30代になって、今度は『海峡の光』で芥川賞を獲ると、また批判されて。又吉さんのようにもてはやされるようなことなんて、まったくありませんでした(笑)。

でも、波風を立てずに、自分の目標を達成することはできないんです。人にいろいろ言われるのは、勲章ですよ。僕自身は、音楽、小説、映画とみんなが決めてしまったジャンルのなかで何かをやるっていうのは、本当の表現じゃないと思っていたので、そこからはみ出ようと常にしていました。なので、もう、波風が立ちまくりですよ(笑)。

せっかく芥川賞をもらったのだから、作家としての道を大人しく歩いていれば、波風も立たないんでしょうが、僕、嫌なんですよ。芥川賞とったら先生と呼ばれるような作家になって、人生あがっちゃうのが。アマチュアリズムというか、常に新人の立場で新しいことにチャレンジしていきたいんです。

そんな感じだから、20代、30代、40代と叩かれて、50代になったら少し落ち着いたかなって思っていたんですけどね。50歳過ぎて、また叩かれるとは思わなかった(笑)。

でも、その時に、敵を味方にしてこその勝利だなと思ったんです。結局、自分が敵だと思っているんです。マスコミの人たちも悪気があって書くわけではなくて、それが仕事なわけですから。ただ、誤解されている部分も多い。それは自分をちゃんと見せていないからだと思うんですよ。

だから、あの騒動のとき、東京スポーツの取材を受けることにしたんです。スポーツ新聞には、僕、散々な書かれようだったんですけどね(笑)。それで、取材に来てくれた記者さんの前で歌ったんですよ。ちょうど、ライブの前だったので、ギターがあって、"こんな曲を歌っているんです"って。

それから、その記者さんは報道されているイメージとは違うということを感じとってくれて、演出する舞台を見に来てくれたり、何かあると必ず来てくれるようになった。その頃から、バラエティ番組にも出演するようになって、流れが一気に変わりましたね。先月、『東京デシベル』という映画の撮影がクランクアップしたんですけど、どのスポーツ紙も記事にしてくれて、宣伝に協力してくれました。

騒動が起こってからは、胃潰瘍になったりと、激動の時間でしたが、今は、11歳になる息子を、しっかり大学まで卒業させることが目標ですね。息子にも彼女を作ってはダメと言われているので、彼が大学を卒業する頃、僕は60代後半。そしたら、また若いお姉さん探しに行こうかな(笑)。

撮影/弦巻 勝


辻仁成 つじ・ひとなり

1959年10月4日、東京都生まれ。85年にロックバンド『ECHOES』のヴォーカルとしてデビュー。89年に小説『ピアニシモ』ですばる文学賞を受賞し、作家活動を開始。97年には『海峡の光』で芥川賞を受賞。99年の『白仏』はフランス語訳され、同国の5大文学賞であるフェミナ賞の外国小説賞を日本人として初めて受賞。また、同年、メガホンをとった映画『千年旅人』はヴェネチア国際映画祭で上映された。その他にも舞台の演出を手掛けるなど、マルチな才能を発揮し、活躍中。

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