小早川秀秋 “人の顔をした獣”と呼ばれた日本史上最大の裏切り者の画像
小早川秀秋 “人の顔をした獣”と呼ばれた日本史上最大の裏切り者の画像

 裏切り、そして裏切られ——。乱世に生き、大きな“決断”をした男たちの末路を振り返る。【戦国武将ヒストリー・小早川秀秋1582-1602】

 晩年まで子ができなかった豊臣秀吉の数少ない血族。それゆえに、豊臣家の継承順位は高く、政権内では確固たる地位を得ていた。しかし、武将としての資質には秀吉からも疑問をつけられていた。

 徳川家康を大将とする東軍と、毛利輝元を大将に担いだ西軍が、それぞれ10万の兵を擁して対峙した、1600年10月21日の関ヶ原。当初、若干ながらも、戦を優勢に進めたのは西軍だった。その流れを一気に変え、東軍を完膚なきまでの大勝に導いたのが、小早川秀秋の裏切りだった。

 秀秋は、1万5000という西軍2番目の兵力を率いていたが、陣を敷いていた松尾山の山上から戦を傍観。裏切ると約束しながらも一向に動かぬ優柔不断な態度に怒った家康が、松尾山に銃を放ったことで秀秋は動き、趨勢が決したのだ。

 秀秋は、秀吉の数少ない血族であり、なおかつ、毛利家を家臣の如く支えなければいけないとされた小早川家に養子に入って、家督を相続していた。このような西軍との強い関係性だったことから、西軍諸将にとって、この動きは晴天の霹靂だった。秀秋軍の裏切りを直に受けた西軍の猛将・大谷吉継は、西軍優勢の流れを作る奮闘ぶりを見せていたが、流れには逆らえず、切腹を決断。その際、「秀秋こそ、人の顔をした獣だ。3年以内に祟ってやる!」との言葉を残したという。

 戦後、“主家筋”の毛利家は120万石から37万石に大減封され、家中では反乱が起きるなど揉めに揉めた。そして、西軍の諸将が、死に追いやられ、あるいは、お家を改易され、減封される中、秀秋は30万石の領地を55万石ほどに大加増され、岡山城主となった。当時、5本の指に入る大名となったのだ。

 ところが、関ヶ原から2年後、秀秋は21歳の若さで突如、逝去する。さらに、子どもがなく、後継ぎもいなかったために、小早川家は改易されてしまうのだ。

吉継の恨みが、裏切られた者の怨念が、彼を冥府へと導いたのだろうか。

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