芸人・加藤茶「ここまできたら、死ぬまでおもしろい人でいたいよね」~マンネリを追求する人間力の画像
芸人・加藤茶「ここまできたら、死ぬまでおもしろい人でいたいよね」~マンネリを追求する人間力の画像

 いまは、一発屋と呼ばれる芸人の子たちがいるけど、僕は逆だと思うんですよね。ギャグがおもしろいんじゃなくて、まず、その人自身がおもしろくなければダメなんです。この人がやるから、何をやってもおもしろいって思ってもらえるようにならなきゃいけない。僕に言わせれば、何かいいギャグないかなって考えることのほうが、よっぽど難しいことですよ。

 普段の生活のなかで、会社とかにも、ちょっと弾けているおもしろい人って必ずいるじゃないですか。僕たちが、ずっと演じてきたのは、そういう生活のなかにいる、おもしろい人なんです。たとえば、消防署の署員の中に、火に水をかけるんじゃなくて、人にかけちゃったりとかね。だから、『8時だョ! 全員集合』が16年も続いたと思うんですよね。ネタだけだったら、もっと早く飽きられちゃっていたと思いますよ。

 おもしろい人でいるためには、舞台の上だけ、おもしろければいいってわけでもない。当時は、仕事の時間は削れなかったから、寝る時間を使って、夜中に銀座なんかでよく遊んでいましたよ。一度、思いっきり遊んだら、どれくらいお金かかるのかなって、一か月間、遊び倒したことがあったんだけど、その時は、2000万。最初は、2、3人くらいで飲みにいくんだけど、銀座の街を歩いてると、途中で“カトちゃんだ!”なんて声かけてくる一般の人たちがいて、“おー、一緒に飲み行こう!”なんて誘っちゃって、最終的には20人くらいで、ドンチャン騒ぎ。誘った以上、お金をもらうわけにもいかないから、300万くらいは、すぐにいっちゃうんですよ。

 田舎から、何もないガキんちょが一発当てようと出てきて、たまたまドリフターズに入って、金が儲けられた。人の3倍以上、人生を楽しんでいるんじゃないかなと思いますよ。単に金を持っているだけなら、IT企業の社長とか、いっぱいいるかもしれないけど、一か月で2000万使うとか、そういう馬鹿みたいにハジケちゃうことって、なかなかやらないじゃない。そういうことができたのは、幸せでしたよね。

 もちろん、52年も芸能界にいれば、いつもがいつも、良いことばかりだったわけではありません。“これで終わりかもしれない”って感じたことは、何回もありましたからね。一番は、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が終わった頃かな。“もう、これ以上やることねーな”って。その時に、役者になろうかとか別の道を考えたんだけど、やっぱり、いつまでも人に笑っていてもらいたい。どんなに年をとっても、小っちゃい子に、カトちゃんって言われたいっていう気持ちはあったんですよね。ただ、新しくやりたいことは思いつかない。その時に、気が付いたんですよ。マンネリこそ大事なんだなって。だって、落語がそうじゃない。昔から同じネタをずーっとやっているのに、おもしろい。だから、マンネリって言われたら万々歳ですよ。ただ、自分が飽きちゃダメ。いつまで、このギャグを新鮮な気持ちでやれるかっていうことが、一番大事なんです。

 たまに、その気持ちが持てなくなる時もあるんですけどね。去年、病気で入院した時は、“もうこれで終わりか”って思ったりもしたし、最近は、かみさんのことでも色々と言われるしね。僕は、とやかく言われても平気なんですけど、かみさんは一般人ですからね。申し訳ないなって思います。でも、今年は志村ともコントをできたし、まだ、求めてくれる人がいるんだなって改めて思いました。ここまできたら、死ぬまでおもしろい人でいたいよね。できれば葬式のときに、花火を打ち上げたり、何か変わったことやって、“さすが、カトちゃーん!”ってみんなに笑いながら、見送ってもらえたら最高ですよ。

撮影/弦巻 勝

加藤茶 かとう・ちゃ

1943年3月1日、東京都生まれ、福島県育ち。62年に『ザ・ドリフターズ』に加入、64年の初のレギュラー番組『ホイホイミュージックスクール』で“加トチャンペッ”のギャグで大人気に。69年には『8時だョ! 全員集合』がスタート。数々のギャグを生み出し、最高視聴率50.2%を叩き出す原動力に。86年からは、志村けんとのコンビで『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』を開始し、志村とのコンビは92年まで続いた。デビュー52年となったいまなおバラエティ番組を中心に活躍する日本を代表する芸人。

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