役者・なべおさみ「表も裏も知り尽くした語り部、それが私の使命」~本物を見分ける人間力の画像
役者・なべおさみ「表も裏も知り尽くした語り部、それが私の使命」~本物を見分ける人間力の画像

 あれから、ずっと海の底を歩いてきたような気がします。生きていくために、息継ぎをしようとひょっこり海面に顔を出すと、また、ポカリと頭を殴られ、ぶくぶくと底に沈んでいく。懸命にもがいて、みっともないほどあがいて、それでも、前だけを見つめて歩いてきた――そんな人生でしたね。事件やニュースが次々と目の前を飛び交い、あっという間に色褪せていく今の時代、25年前の“明治大学替え玉入試事件”は、みなさんの中では遥か記憶の彼方で。「あぁ、そういえば、そういうこともあったねぇ」という程度のことかもしれません。でも、私たち家族にとっては、長く、長く、とんでもなく長くつらい日々でした。マスコミにはボロクソに叩かれ、世間の人からは胡散臭いものを見るような目で蔑まれるようになりました。

 年収はウン千万も頂けていたのが、いきなりゼロ。それどころか、予定されていた地方での公演が何件もキャンセルになって、その補償のために、逆にお金を払わなければならない立場になってしまいました。お金だけなら、まだしも、それまで兄貴のように慕っていた人が、事件が起きてから、一切連絡が取れなくなったり、人の冷たさをこれでもかと感じましたね。それでも、悪いことばかりだったのかというと、これが意外なことに、そうでもありません。

 何も持たない裸のなべおさみになったからこそ、人の温かさに触れることができました。地方公演が相次いでキャンセルになるなか、“私はなべおさみを応援します”と新聞に広告を出して、公演をやらせてくれた方など、窮地に陥った私に救いの手を差し伸べてくれる方も少なからずいらっしゃいました。そんな経験があったからこそ、人を見る目というのが、養われたのかもしれません。

「世の中のすべての人と物は、3つに分けられる。1つ目は本物。2つ目は偽物。3つ目は似て非なる物と書いて似非物というんだ。君はこれらを見分けられる人間になりなさい」 13歳だった悪ガキに、人と物を見る尺度を教えてくれたのは、日本で最初のジャズ喫茶銀座「テネシー」で、偶然、隣合わせになった端正な佇まいの中にも上質な気品を漂わせていた白洲次郎さんです。

 本物にいっぱい出逢いなさい――その教えを胸に、これまで数えきれないほどの本物に出逢ってきましたが、この間、その思い出とともに、「本物の男」と「本物の女」を少しづつ書きためてきたことが、海の底から浮上するきっかけを作ってくれました(昨年2冊の本を上梓)。本物の方とのエピソードだけを選び抜いた内容は、自分で言うのもおこがましいのですが、かなり面白い内容に仕上がったと思っています(笑)。

 また、2月から『週刊大衆』でスタートする新連載でも芸能界の中でも、ひときわ大きな輝きを放ち続けた、あの大スター、大女優、昭和という時代を彩ってきたエンターテイナーたちとの間で交わされたエピソードを紹介していく予定です。

 最後は役者、なべおさみで終わりたい――それが私の夢であり、矜持です。しかし、それと同時に、今を生きるみなさんに、本物とはどういう男たちなのか? なにを考え、どう生きてきたのか!? 裏も表も知り尽くした語り部として、それを伝えるのも私の使命だと思っています。

撮影/弦巻 勝

なべおさみ なべ・おさみ

1939年、東京生まれ。本名は渡辺修三。58年、明治大学演劇科入学後、ラジオ台本などの執筆活動に入る。その後、水原弘とともに渡辺プロダクションに入り、水原や勝新太郎、ハナ肇の付人となる。62年明治大学卒。64年、『シャボン玉ホリデー』(日本テ レビ系)でデビュー。「安田ぁー!」の決めセリフのコントが人気を博した。68年、山田洋次監督の『吹けば飛ぶよな男だな』で映画主演も果たす。74年に渡辺プロを退社し、森繁久彌の付人になる。78年から『ルックルックこんにちは』(日テレ系)内の人気コーナー「ドキュメント女ののど自慢」の司会も務めた。91年、明大裏口入学事件により、芸能活動を自粛。現在は、舞台や講演を中心に活動中。

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