映画監督・足立正生「僕にとってはゲリラ兵時代も映画監督も、同じ地続き」~ゲリラ戦を生き抜いた人間力の画像
映画監督・足立正生「僕にとってはゲリラ兵時代も映画監督も、同じ地続き」~ゲリラ戦を生き抜いた人間力の画像

 僕の田舎には八幡製鉄所というドデカい製鉄所があって、毎年1週間も続く企業祭がありました。お祭りにはサーカスを4つも5つも呼んで、全国の怪しげな見世物小屋がズラッと並ぶわけです。「蛇女」が蛇を生きたまま食ったと思ったら鼻から引き出したり、今度は口からも引き出したりして、実に素晴らしい。2軒目、3軒目の見世物小屋に行くと、別の猥雑な芸が見られる。紙芝居をめくるように、ワケのわからないものを次から次へと見られる楽しみが見世物小屋にはありました。

 僕らが子どものころには、街頭には戦争で腕や足をなくした傷痍軍人もいました。ほかに仕事もないし、そうやって自分の命をさらさないことには生き延びられない。僕らはそんな彼らに吸い寄せられるわけです。

 カフカが死ぬ寸前まで手を入れていた最後の作品『断食芸人』では、檻の中で何十日も断食する謎の男が描かれます。この作品をモチーフにして、イスラム国だのテロリズムだの世界で起きていることを何でも詰めこんでしまおう。子どものころ見た見世物小屋や紙芝居のような映画を作ろうと思いつき、9年ぶりに新作映画『断食芸人』を撮りました。

 こういうことを言うと「オマエはテロリストに肩入れするのか」と怒られるわけだけど、檻の中で断食してる芸人とイスラム国のテロリストは似ていると思うんですよ。テロリストは暴力によって人に脅威を与える。断食芸人は断食しながらただじっと押し黙っているわけですが、その不気味な存在感がかえって人に脅威を与える。根っこは同じようなところがあるわけです。ただ、ISのように、目的達成のために手段を選ばないことは、僕らが考えていた革命や解放とは、まったく違うので、大いに批判しています。かつて僕は、カンヌ映画祭の帰りに若松孝二(映画監督)と一緒にレバノンに渡って映画を撮りました。そして97年まで、パレスチナ解放人民戦線や日本赤軍と一緒にゲリラ兵として戦っていたのです。「新宿の酔っぱらいでもゲリラが務まるのかな」と考えて、レバノンに渡ったら、26年半も経ってしまった。

 敵がたのイスラエル軍は、まず空爆でナパーム弾を落とすわけですよ。続いてヘリコプターが戦車を吊ってやってきてダーッと地上戦を展開する。戦闘機や戦車と戦ったところで勝ち目はありません。だから小さな塹壕を掘って、クソも小便も垂れ流しで、微動だにせず、2日も3日もじっと過ごす。夜間に赤外線で探知されても「獣か何かがいるのだな」と相手を騙さなきゃいけない。

 戦車が行き過ぎてしばらくすると陸戦隊がやって来ます。そうなったらこっちのもの。白兵戦だったら僕らは負けないわけです。死を覚悟したことは何度もあります。戦線にいて、小便して帰ってきたら大きな穴ぼこが一つ空いていて、それまで一緒にいた部隊の連中は影も形もなくなっていた。立ち小便に出かけていなければ僕も死んでいたわけです。

 我々パレスチナゲリラが戦う場所は石ころだらけの荒野ですから、戦いの最中は缶詰やパンくらいしか食べられません。基地がある高地には果物がたくさんありますから、腹が減ったら果物をちぎって食べる。レバノンの沿岸部は魚が獲れるので、基地に魚を持って帰り、自分でさばいて振る舞ったこともあります。

 後半になると年に1、2回は若松が、様子を見に来てくれたから、そのときは、何かと口実をつけて、毎日のように酒盛りですよ。若松に「それで、ゲリラ務まるのか?」って心配されたけど、レバノンに来るときに決めたテーマが、“酔っ払いでもゲリラが務まるか”でしたから(笑)。銃を持っていようがペンやカメラを持っていようが、実はたいして差はないと思うわけです。なにしろ僕は塹壕に隠れながら「若松ならここを端折ってこう撮るだろうな」「大島(渚)ならあそこまで行って大きく俯瞰で撮るだろうな」と映画のことを考えていました。映画も革命も実は同じです。

 僕にとってはゲリラ兵時代のあのころも、映画監督として生きている今も、一つの人生として同じ地続きなのです。

撮影/弦巻 勝


足立正生 あだち・まさお
1939年北九州市生まれ。日本大学芸術学部映画学科在学中に映画を撮り始め、故・若松孝二監督の独立プロダクションで「性と革命」を主題にしたピンク映画の脚本を量産。71年にパレスチナへ渡り、ゲリラ兵として戦いつつ映画「赤軍 PFLP・世界戦争宣言」を撮影。74年に重信房子率いる日本赤軍に合流、国際指名手配される。97年にレバノンで逮捕され、00年3月に刑期を満了して日本へ強制送還された。

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